パシフィック・リム(2013)

製作国:アメリ
監督:ギレルモ・デル・トロ
脚本:トラヴィス・ビーチャムギレルモ・デル・トロ
音楽:ラミン・ジャヴァディ
出演:チャーリー・ハナム菊地凛子ロン・パールマン 他
初公開年月:2013/08/09
★★★★☆


村上春樹の小説に出てきそうな僕のガールフレンドによる『パシフィック・リム』の感想

その電話がかかってきたとき、僕は台所でスパゲティーを茹でていた。スパゲティーは、もう茹で上がる寸前だった。テーブルに置いてある、一昨日から故障して音の出ないテレビでは、古いホラー映画が放映されていた。
電話のベルが鳴ったとき、僕はそれを無視してスパゲティーを茹で続けようかと思った。後になって思ったのだが、そうすれば良かったのだ。スパゲティーはもうほとんど茹で上がっていたし、テレビの画面では人の皮膚で作った仮面をかぶった狂人がまるで警告するようにチェーンソーを振り回しながら声のない叫びをあげていたのだ。しかし、結局、僕は居間へ行って受話器を持ち上げた。
「私だけど、今何してるの?」
電話をかけてきたのは去年の暮れから付き合っているガールフレンドだった。
「スパゲティーを茹でていたんだ。朝から何も食べていなくてさ」
「あら、タイミングが悪かったわね」
「いいんだよ」と僕はものわかり良く言った。「僕が昼間からわざわざスパゲティーを茹でて食べるなんて君にどうしてわかる?」
「どうしても今聴いてほしい話があるのよ」彼女は、まるで僕が今言ったことが聞こえなかったかのように言った。
「でも、スパゲティーが――」このままじゃ駄目になっちまう、と僕は言いかけた。
「そんなの後で、また作ればいいじゃないの。私は今すぐあなたと、この憤りを分かち合いたいのよ」と彼女は早口で言った。
「憤り? 一体何があったんだい?」
「私の友達に雑誌の編集者がいるでしょう?」と彼女はまるで、猫は鼠を捕るでしょう?とでも言うような口調で言ったが、僕には初耳だった。しかし、それを言うとややこしいことになりそうな気がしたので、ただ「うん」とだけ答えた。
「彼女に誘われて、映画を観に行ってきたのよ」と彼女は言った。「その映画がとにかくひどくて、どうしてもあなたに話を聞いてもらいたくなったのよ」
やれやれ、と僕は心の中でつぶやいた。彼女はいい娘だが、自分が観た映画や演劇、読んだ小説などの感想を誰かに(特に僕に)話さないではいられないという妙な性癖があるのだ。しかも感想と並行して、必ず物語を最後まで細々と説明されてしまうので、僕は、ときどきげんなりさせられた。でも、まあいいじゃないか。完全な人間なんかいやしないんだ。僕は度々自分にそう言い聞かせなければならなかった。
しかし、もし今日彼女が観た映画が、僕がこれから観ようとしているものだったら、断固として電話を切ろう。僕は聞いてみた。
「何ていう映画を観たんだい?」
「『パシフィック・リム』っていう映画よ」と彼女は答えた。タイトルさえ口にしたくもないといった感じだった。
僕は密かに胸をなでおろした。あの映画なら先週観たばかりだったからだ。しかし、それも黙っておくことにした。
「あなた、知ってる? あの映画のこと」
「コマーシャルで見た程度はね」
「最低よ」と彼女は言った。「あんなの観客を馬鹿にしているわ」
僕はむしろ最高だと思ったし、エンドロールが終わったときには立ち上がって拍手したかったくらいなのだが、とにかく聞いてみた。
「どこが最低なんだい?」
「だって荒唐無稽じゃない。怪獣が出てきて、ロボットと戦うなんて。現実離れしすぎてるわ」
それがいいんじゃないか、と思わず言いそうになったが、かろうじて我慢した。
「大人になっても漫画とかアニメーションとかに夢中な、幼稚な人っているでしょ? そういう類の人たちなら面白いんでしょうけど」と彼女は言った。彼女はいわゆる「おたく」が大嫌いで「おたく」という単語さえ口にしたくないのだ。
「だいたい怪獣だなんて馬鹿みたい」
これには、ちょっと腹が立った。僕は子どもの頃、怪獣が大好きだった。あの映画を観て、僕は久しぶりにその頃の気持ちを思い出して、ちょっとセンチメンタルになったりもしたのだ。僕は言った。
「映画なんだから別にいいじゃないか」
「よくはないわよ。やっぱり最低限のリアリティは必要だと思うわ。あんな訳のわからない生き物がいるわけないじゃない」
いや、あれは別の宇宙から来た怪物なんだから、などと説明しても仕方がないことはわかっていたので、僕は黙っていた。
「あしかなら、まだ良かったのに」と彼女は言った。
「あしか?」
「そうよ。20メートルくらいあるあしかが上陸してくるのよ。それならまだ現実感があるんじゃない?」
全然ないよ、と言いたかったが、これもかろうじて耐えた。
「どうしてあしかなんだい?」と僕は聞いてみた。
「まず実在してるでしょ? それに海の生き物ってけっこう大きくなるらしいじゃない」
「でも――いや、それであしかがロボットと戦うのかい?」
「あのロボットのセンスもひどいのよねえ」と彼女は言った。「やっぱりデザインはハジメ・ソラヤマが良かったんじゃないかしら?」
ハジメ・ソラヤマ?」
「ほら、セクシーなロボットのイラストを描く人よ。世界的に有名よ、ハジメ・ソラヤマ」
ここでようやく僕の中で「ハジメ・ソラヤマ」と「空山基」が結びついた。日本人なのに「ハジメ・ソラヤマ」なんて呼ぶ女と付き合ったのは初めてだ。
「それにわざわざ人間が二人も乗り込んで操縦する意味もわからなかったわ。外から操作すればいいじゃない」
「それは、ほら、その方がスリルが――」
「だから私、思ったのよ。スマートフォンで操作すればいいじゃないって。これでまたリアリティが増すでしょう?」と彼女は少々自慢げに言った。
僕は想像してみた。
ハジメ・ソラヤマ」デザインのセクシーな女性型巨大ロボットが、20メートルのあしかと戯れる。
菊地凛子が微笑みながら、ロボットをスマートフォンで巧みに操り、あしかをどんどん陸地から海の方へ遠ざけていく。
やがて、あしかは、海の彼方へと去っていくだろう。そしてセクシーな巨大ロボットはつかの間の眠りにつくのだ――次のあしかが襲来するまで。
彼女はまだ何かを喋っていたが、僕は無言で受話器を置いた。
スパゲティーは完全に駄目になっていたので捨てた。
しばらくすると電話が鳴り始めたが、僕は無視してパソコンの前に座り、次の休日にもう一度『パシフィック・リム』を観に行くべく、チケット予約をすることにした。電話のベルは50回以上鳴っていたが、そんなものをいつまでも数えているわけにはいかないのだ。