Chime (2024・日本)

監督:黒沢清
脚本:黒沢清
音楽:渡邊琢磨
出演:吉岡睦雄/小日向星一/天野はな/田畑智子渡辺いっけい 他
★★★★☆


「空気」が怖い

本作中で起こる出来事だけを羅列してみると、本当に不条理この上ない。まず料理教室に通う若い男性が、訳のわからないことを口走った挙げ句、授業中に自殺(?)する。それを目の当たりにした料理教室の講師である主人公(吉岡睦雄)は、女性の生徒を唐突に刺殺する。しかし彼女の死体を埋めた翌日に、殺したはずの生徒が訪ねてきて、主人公が、彼女が待っているはずの教室に行ってみると幽霊が出現(したらしい。はっきりとは描かれない)。そして主人公とその家族の破滅を匂わせて、本作は終わる。


こう書いてみると「全然わけがわからない、それの何が怖いの?」と思う人もいるだろう。しかし、この45分しかない作品は、近年まれに見る怖ろしい映画なのである。なぜか。それはこの作品内に充満する空気に由来する。ここでいう空気とは読んだり読まなかったりする、あの空気ではなく、我々の生息する世界にもあまねく存在する文字通りの空気のことである。


どうやら、この映画の世界の空気は、人間の内面に潜む狂気を感染させる性質があるのだ。狂気は、教室で自殺(?)した生徒から主人公へ、さらに主人公の家族へと拡散する。いや、あるいは主人公から生徒や家族に感染したのかもしれない。しかしそれは大した問題ではない。狂気が人から人へと伝わることを可能とする空気こそが恐怖の源なのだ。そんな空気に満たされた世界ではどんなことでも起こり得るからだ。例えば、カフェで主人公の近くに居ただけの人物が突然ナイフを振りかざし、すぐそばに座っていた人を襲うというような。


しかし、この空気とは、本作だけのあくまでもフィクショナルなものだろうか。ときどき、なぜそんなことが起こったのか、全く理解できない異様な事件が起こることがあるが、そういう事件の現場には、この作品中のそれと同じ空気が流れているのではないだろうか。本作を観て、そんな妄想に駆られてしまった。

2024年7月の鑑賞記録

劇場

復讐するは我にあり新文芸坐 '24・7・7
『Kfc』シアター・イメージフォーラム '24・7・22
『ゴングなき戦い』(ジョン・ヒューストン特集)ストレンジャー '24・7・27

配信

『短編ホラー「5movies」』 in-facto(YouTube) '24・7・15
『短編映画「蠱毒」(poison) 』シャーレ(山河図)(YouTube) '24・7・18
『短編映画「蠱毒」(solitude) 』シャーレ(山河図)(YouTube) '24・7・18
『短編ホラー「土下座」』in-facto (YouTube) '24・7・21
『短編ホラー「トレッキング」』in-facto (YouTube) '24・7・21
『短編ホラー「椅子」』in-facto (YouTube) '24・7・21
『短編ホラー「調査報告:L市」』in-facto (YouTube) '24・7・28
『短編ホラー「天使化」』in-facto (YouTube) '24・7・28

『ゴングなき戦い』の主人公ビリー(ステイシー・キーチ)は、かつては将来を嘱望されたボクサーだったが、今や酒浸りになり、日雇い労働で生活する日々を過ごしている。そんな彼がたまたま出会ったアーニー(ジェフ・ブリッジス)という若者にボクシングの才能を見出し、彼がかつて所属していたジムを紹介することになる。
さて、ここから後はどんなストーリーが展開するだろうか。アーニーが、ビリーと共に切磋琢磨して、やがて才能を開花させてチャンピオンになるというサクセス・ストーリーを思い描けないこともない。だが、そうはならない。
アーニーはボクサーとしてデビューするが、決して非凡ではない上に、恋人が妊娠したのを機に結婚することになり、いきなり厳しい生活に直面する。
アーニーに影響され、「まだ自分はやれるのではないか?」と思い立ったビリーは、カムバック戦に挑むが、それは彼が思い描いたような結果にはつながらず、彼は再び酒浸りの生活に戻っていく。
いや、ビリーとアーニーに限らず、本作の登場人物は誰も望んだような人生を歩むことはできず、我が身を嘆きながら、ただ自分にできることをしたり、しなかったりしながら生きていくしかない。しかし、そういう彼らを単に「敗者」として突き放すのではなく、死なない限り降りられず、戦いの終了を知らせるゴングも鳴らない「人生」というリングで戦う同志としてジョン・ヒューストンは暖かい眼差しを向けている。そのことが何とも言えない余韻を僕に残した。

2024年6月の鑑賞記録

劇場

『マッドマックス:フュリオサ』(IMAX)T・ジョイPRINCE品川 '24・6・2
『ソイレント・グリーン 《デジタル・リマスター版》』シネマート新宿 '24・6・11
『他人の顔』新文芸坐 '24・6・14
蛇の道(2024)』新宿ピカデリー '24・6・19

配信

『Q2:7テイク100 - Take100』フェイクドキュメンタリー「Q」YouTube)'24・6・22

『ソイレント・グリーン』といえば、その原料は実は……というオチの部分ばかりが言及されがちだが、僕にとっては本作が描く2022年の未来社会のディテールが興味深かった。
例えば主人公のソーン刑事(チャールトン・ヘストン)は「本(ブック)」という階級に属するソルという老人と同居している。「本」は資料検索のエキスパートで、膨大な資料の中から依頼主が知りたいことを探し出すのが仕事。いわば「人間サーチエンジン」である。また「家具(ファニチャー)」と呼ばれる階級に属する女たちは、主に富裕層の住むマンションの「部屋付き家具」として扱われており、住人の身の回りの世話から性処理まで担当する。なんとも『家畜人ヤプー』的である。
「本」も「家具」も自分の能力や肉体を差し出す代わりに住まいを得ているのだが、それはこの世界では何よりも住居が貴重だからだ。人口が超過剰なために、膨大な数の人々がホームレス化してしまっているのである。その上、環境破壊による恐るべき酷暑に苦しめられ、生鮮食料品は希少で高価なので、富裕層しか入手できない。そんな地獄のような世界が本作の背景にはある。
こんな世界で生きることに嫌気がさした高齢者のためには「ホーム」という安楽死のための施設がある。受付で名前を書いて、処置室に案内され、かつての美しい地球の映像を見ながら20分間であの世行き。ものすごく簡略化されていて、それがどうにも恐ろしい。
上記の本作の設定は、1973年の公開当時では単なるフィクションに過ぎなかったが、2024年7月現在、改めて考えてみると、どうも現実味を帯びてきているような気がする。「本」「家具」ほど極端ではないが、人間を職業・職能で選別するという価値観はすでに普遍的だし、安楽死も身近に差し迫った問題として捉えられつつある。そして、何よりもこの体温なみの暑さ! 世界は順調に『ソイレント・グリーン』化しつつあるのではないだろうか。

マッドマックス:フュリオサ(2024・オーストラリア/アメリカ)

監督:ジョージ・ミラー
脚本:ジョージ・ミラー/ニコ・ラソウリス
音楽:トム・ホルケンボルフ
出演:アニャ・テイラー=ジョイ/クリス・ヘムズワース/アリーラ・ブラウン/トム・バーク 他
★★☆☆☆


フュリオサは死なない

退屈しなかったといえばウソになる。だが概ね楽しかったのも事実である。特に冒頭のフュリオサの母ちゃんが活躍するパートと、あくまでも空からの攻撃にこだわるバイカー軍団の分派との戦闘シーンは面白かった(それぞれ長かったが)。
しかし終映後には、十二分に「マッドマックス的なもの」を頭に詰め込まれたような感じがして、もうしばらく結構です、という気分になった。


で、振り返って感想をば言葉にしてみようとするうちに、僕は何分バカだから今頃ハッと思い当たったのだが、本作の主人公フュリオサ(アニャ・テイラー=ジョイ)は劇中何度も死ぬような目に遭い、ついには片腕を失ったりしながらも、しかし生き延びて最後には復讐を果たすので、その復讐の具体的な方法にはちょっと引きつつも、まあまあスカッとさせられた訳だが、これ、よく考えたらごく当たり前の結末なんである。だって本作は前作『怒りのデスロード』のプリクエル(前日譚)なんだから。だから彼女が死ぬわけはないし、片腕を失うのも、前作で彼女は義手を装着して登場するんだから、いわば予定されていた事態なのである。


もしも本作を観ている最中にこのことを意識してしまっていたら、もっと退屈に感じたに違いない。結果は先に出ていて、本作はそこに至る経緯の説明でしかないとも言えるのだ。これは本作に限らずプリクエルというもののネガティブな一面だと思う。
もちろん、そんなことはジョージ・ミラーだって百も承知なわけで、とにかく「そもそもフュリオサが死ぬわけないじゃん」ということに観客が気をとられないように、「代わりに死ぬ奴を出す」とか、いろいろな手練手管を駆使している。


でも「フュリオサは死なないことを約束されている」ということを念頭に置いて、本作を振り返ると、劇中のあれやこれやの大騒ぎもことごとく無意味・無駄に思えてきてしまう。だが繰り返すが、観ている間はそのことは脳裏に浮かばなかった。だからそれだけの力はある作品なのだと思う。

2024年5月の鑑賞記録

『白熱(1949)』(ラオール・ウォルシュ レトロスペクティブ ウォルシュを観て死ね!)シネマヴェーラ渋谷 '24・5・3
『関心領域』新宿ピカデリー '24・5・29

『映画の生体解剖―恐怖と恍惚のシネマガイド』(稲生 平太郎・高橋 洋/洋泉社)という、800本くらいの映画について触れているすごい本があって、僕は、この本の中で紹介されているという理由で、これまでに何本かの作品を観ていますが『白熱』もそのうちの一本です。
主人公のジェームズ・キャグニーは強盗団のボスで、邪魔だと思えば仲間でも容赦なく殺す冷酷非情な男であり、痛みのあまり失神してしまうほどの頭痛持ちであり、さらに強度のマザコンというキャラクター。この男と、彼を執拗に追う警察との攻防が終始描かれます。
映画として面白いのはもちろんなんですが、さらに僕が感心したのは、全然「古い」と感じさせないところ。時代だけ2024年に移して、同じ内容のリメイクを作っても通用すると思う。さすがに冒頭の列車強盗シーンは今時無理だと思うので、変更しなければならないとは思いますが。
なぜ古さを感じさせないのかと言えば、製作された時代に依拠した表現になっていないから。主人公の、現代風に言えばサイコパスチックな造形をはじめ、キャグニーの妻や仲間による裏切り、キャグニーの復讐、強盗団と警察との駆け引きなど、「ギャング映画」としての、時代を超えて普遍的な要素ばかりでプロットが組み立てられている。だから古びない。
そして何といってもクライマックスが突き抜けすぎ。当時としてはだいぶ異常なシーンだったと思うんですが、今観てもやはり異常。だからこそ時代を超えた作品になったと思います。

インフィニティ・プール(2023・カナダ/クロアチア/ハンガリー)

監督:ブランドン・クローネンバーグ
脚本:ブランドン・クローネンバーグ
音楽:ティム・ヘカー
出演:アレキサンダー・スカルスガルド/ミア・ゴス/クレオパトラ・コールマン/トーマス・クレッチマン 他
★★★☆☆


人間暴落

 ある国の高級リゾート地に妻と共にやって来た、スランプ中の小説家ジェームズ(アレキサンダー・スカルスガルド)は、彼の小説のファンだというガビ(ミア・ゴス)とその夫と知り合い、4人でドライブに行くことになる。その帰り道に運転したジェームズは誤って地元の男性をはねて殺してしまい、その翌日、彼は逮捕され、この国の法律により死刑を宣告される。ただし、金さえ払えば自分のクローンを製造して、そのクローンを死刑にすることで罪を免れることができると持ちかけられる……。


事故だろうと故意だろうと関係なく、人を殺したら即死刑というのも無茶苦茶だが、ただし自分のクローンで代替できますって、どういう国なの?と思うけれど、死刑と言われちゃ話に乗るしかない。ジェームズは、銭湯の浴槽を思わせる部屋に全裸で入れられ、そこへドロドロした変な液体が注入される。そして何やらサイケな夢を見ている間にクローン完成。何というインスタント感。もしかするとこれまでクローンを扱った作品の中で最も雑なクローン製造描写かもしれない。
しかし、お手軽なわりに、この国で作られるクローンは、本人の人格も記憶も完コピしているという優れもの。その、いわば本当の意味での「もう一人の自分」が死刑に処されるところを強制的に見学させられるはめになるジェームズ。「自分」が殺されるシーンなんか見ていられないのが人情だろうが、どういうわけか恍惚としつつガン見する。いったいその時、彼の中で何が起こっていたのか。


「自分の骨壺」を抱えてホテルに帰ってきたジェームズをガビが待ち受けていた。そして彼女に紹介されたのは、彼女と彼女の夫も含めて過去に自分のクローンを作ることで死刑を免れた数人の男女。いずれも富裕層の彼らは、逆にこの国でなら金さえ払えば何でもやり放題とばかりに、この後ジェームズを巻き込んで派手なご乱行をエスカレートさせる。その過程で殺人を犯し、またしてもクローン製造。そしてクローンの死刑。それさえも仲間内のジョークにしてしまう彼ら。


僕は鑑賞直後は、あまりに雑にクローンが作られるのには、どうも納得できるリアリティに欠けていると思った。しかし、本作ではむしろ雑でなければならなかったのだ。呆れるほど容易く自分と全く同じ人間が作られることによってその価値は暴落する。偽札が世間に出回ると貨幣の価値が下がるのと同じ理屈である。
すると当の本人はむしろ自由になってしまう。自分なんか無価値だとはっきりすることによっていくら堕落してもいいことになってしまう。ガビたちはその「堕落する自由」に耽溺している人々なのであり、ジェームズもまた、「自分」が死刑になるのを見ながら、そのことに気づいたのだ。無価値になることによって得る自由があると。


しかし当然ながら堕落は堕落にすぎないのであって、彼らは人間の最底辺といってもいい存在になる。だが、それはこの国にいる限りのことであり、帰国してしまえば、また元の善良な一市民に戻れるのだと高をくくっている。
クローンを作ろうと作るまいと、この世の人間は皆等しく無価値なのだと知ってしまったジェームズのみが取り残されるラストは哀切だ。

ボーはおそれている (2023・アメリカ)

監督:アリ・アスター
脚本:アリ・アスター
音楽:ボビー・クルリック
出演:ホアキン・フェニックスネイサン・レイン/スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン/パーカー・ポージー 他
★☆☆☆☆


ここから先は何もない

これは何も観客に与えまいとする映画である。アリ・アスターがこの作品でとっているのは「何も語らない」ということに意味があるとする不可解な姿勢だ。


恐ろしく不穏なオープニングなので、いったいどんなにイヤな映画を観せられるのかと誰もが身構えるだろう。しかし、ここから先は何もないのだ。ひたすらホアキン・フェニックスが不条理な体験を強制され続けるだけ。この物語からは何も読み取れない。


『ヘレディタリー/継承』には少なくとも「母ちゃんがキレたら怖い」という確固たる信念があった。これまで映画の中でたとえ母ちゃんがキレ散らかしても、せいぜい「やれやれ」という感情しか観客に生み出さないと(恐らく)誰もが考えていたところに、突如として「母ちゃんがキレることはホラーになり得る」とアリ・アスターが言い出し、実践してみせたのだ。それがあの映画の最大の発明である。


本作は『ヘレディタリー/継承』を100倍薄めて、さらに3時間に引き延ばした代物である。そして登場人物はボーとその母親以外は全員ゾンビみたいなものだ。いわば内面のない操り人形。本作の世界を支配しているかに見える母親さえ、単なる異常者以上のものではない。『ヘレディタリー/継承』は突然「良き母」だった女の仮面が剝ぎ取られ、どす黒い情念が噴出するところに恐怖の源があった。本作におけるボーの母親は最初から異常な人間でしかない。最初から異常だとわかっている人間からは脅威は感じても恐怖は生じない。


ボーは母親およびゾンビたちに不条理な目に遭わされ続けて、徹底的に被害者のまま終わる。ただそれだけ。ここにはどんな教訓もテーマもない。ただ、ここには何もない、何も与えませんよと語られるのみだ。そんな映画にどんな意味があるのかというと、世の中にはそんな映画をわざわざ作る人間もいるのだと実感できるのがせいぜいだ。そして、それがこの監督のどうやら望むところなのだ。何もないということを語る。観客は虚しさだけを得る。それこそが、どうやら。