ハウス・ジャック・ビルト(2018)

製作国:デンマーク/フランス/スウェーデン
監督:ラース・フォン・トリアー
原案:イェンレ・ハルンド/ラース・フォン・トリアー
脚本:ラース・フォン・トリアー
出演:マット・ディロンブルーノ・ガンツユマ・サーマン/ソフィー・グローベール/ライリー・キーオ 他
★★★☆☆


コレジャナイ「シリアル・キラー映画」

僕はラース・フォン・トリアーの作品は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、『アンチクライスト』そして本作の3本しか観ていないんですが、その上で言うとこの人、自作に何らかの期待をして観に来てくれた観客に「コレジャナイ…」という気分を味わわせることを生きがいにしている謎の悪意に満ちた異常監督だとしか思えないんですよね。
というのも『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は「ビョーク主演のミュージカル映画」だから観に行ったというビョークのファンも少なくなかったと思いますが、確かにそれは間違いではないものの、まさかあんな胸クソ悪い思いをさせられるとは夢にも思わず「コレジャナイ…」となっただろうし、「シャルロット・ゲンズブールの全裸セックスシーン満載!」ということでスケベ心を煽られて『アンチクライスト』を観に行った男性諸氏も、確かにセックスシーンにかなり時間を割かれてはいるものの、それ以上に心底げんなりさせられるシーンがてんこ盛りなので、「コレジャナイ…」と落胆したことだろうと思うからです。
で、本作はどういった客層への悪意が込められているかというと、いわゆる「シリアル・キラー映画」を愛好するような観客だと思うんですよ。って俺じゃねえか。いや本当に、頭がちょっとアレな連続殺人鬼が常軌を逸した残虐な手口で何の罪もない人間を殺しまくるような映画を好んで観るような人なら、まあ当然、本作にだって食指を伸ばしがちだろうと思うんですが、実際に観て「うーん、コレジャナイ…」となった人は結構いるんじゃないでしょうか。
確かに本作では、主人公・ジャック(マット・ディロン)が最初の犠牲者(ユマ・サーマン)を皮切りに連続殺人犯と化してゆく様を描いている訳ですが、この男、自分には芸術的才能があると思い込んでいて、いわばアートとしての殺人なのだと自己規定しているんですけど、全然アートでも何でもないのが一目瞭然なんですね。死体をソファにならべて写真を撮ったり、死後硬直する前に加工してポーズをとらせたり、地面に並べてインスタレーション作品みたいにしたりするんですが、まあ、およそ芸術なんてものに縁のない僕からしても単純に悪趣味なだけとしか思えない。自分で設計した家を建てようとしては、自ら失望して壊してしまうことを繰り返すのと並行して、殺人を続ける彼は、本当は自分には芸術の才能なんて皆無なのをわかっていて、そのことへの怒りのために人を殺しているんではないかとさえ思える。観ているうちにだんだん悲しくなってくる始末です。
そして、観終わってつくづく思ったのは、いわゆる「シリアル・キラー映画」は、劇中でどんな惨劇が描かれようとも「芸術的な洗練」がなされているんだということです。だからこそ僕たち観客は『羊たちの沈黙』も『セブン』も、その他数多くの「シリアル・キラー映画」も娯楽として享受できる。ところが本作はその「芸術的な洗練」を極限まで削ぎ落として「ほら、お前たちが望んだシリアル・キラーの物語だよ」と観客に提示している。だから「コレジャナイ…」となるのは必然なんですね。そんな映画の主人公であるジャックが「ミスター・洗練(ソフィスティケート)」と劇中で名乗っているのは、もちろんラース・フォン・トリアーの嫌味に決まっており、本当にイヤな奴だよと思いました。