ダイアリー・オブ・ザ・デッド

地球最後の映画バカ一代

ペンシルヴァニア州の山中で、ジェイソン・クリード(ジョシュ・クローズ)とその仲間達は映画学科の卒業制作のために、ホラー映画を撮影していた。だがその最中、ラジオから衝撃的なニュースが流れる。それは、世界中で死者が蘇り、人々に襲いかかり始めているという信じられない内容だった。しかし撮影を切り上げ、山を下りたジェイソン達は、行く先々で実際に蘇った死者が人間を襲い、喰らうという戦慄の光景を目撃する。ジェイソンは、この恐るべき現象の実態をビデオカメラで克明に記録して後世に伝えようと決意し、恋人のデブラ(ミシェル・モーガン)の反対も聞かず、絶えず生命の危険が迫る状況下で撮影を始めるのだが……。


最近、テレビのニュースで、事件や事故が起こった際にちょうど居合わせた近所の人などが撮影した映像を使用しているのを、よく見かける。いまや携帯電話でも動画が撮影できる時代だ。おまけに別にテレビ局など介さなくても、インターネットにアクセスすれば「You Tube」のような動画共有サイトが数多く存在し、自分が撮影した映像を発表することは実に容易いことになった。もはや誰もが「報道する側」、「映像を提供する側」に回ることが可能になったと言えるだろう。この映画は、まさにそんな時代だからこそ撮られた作品だと思う。
さて本作は、ジェイソン・クリードが遺した映像を生き残った仲間が編集し、音楽も加えて制作した『Death of Death(死の終焉)』という作品である、と冒頭のデブラのナレーションで説明される。つまり一本の映画が丸ごと「映画内映画」なのである。
この『死の終焉』では、ジェイソンが執拗にカメラを回し続け、目前で起こる出来事を逐一撮影し続ける模様も別のカメラによって撮影されているのだが、彼の「とにかく目の前で起こってることは全部撮る!」という執念は尋常ではない。仲間がゾンビに襲われても助けもしないで撮影。その仲間が死んで、やはりゾンビとして蘇るというやりきれない場面もきっちり撮影。デブラや他の仲間たちがいくら非難しても、彼は決して撮影をやめようとはしない。
その動機がはっきりと示される場面がある。成り行きから、黒人たちのグループのアジトに立ち寄ったジェイソンは、そのアジトにあったPCから、それまでに撮影した映像を動画共有サイトにアップする。するとたちまちアクセスが殺到し、彼は有頂天になるのだ。興奮した彼は、撮影をやめろと迫るデブラに言う。「アップしてから、たった8分間で7万2000件のアクセスだ。1時間後には100万ヒット。明日には天文学的数字になる!」
……何のことはない。彼は単に、如何にレアな映像を撮って名前を売るか、というゲスい下心に突き動かされていたのである(もっとも自分では、あくまでも人類のために貴重な記録を撮影していると思い込んでおり、てめえの下心に気づいていないのが痛いところなのだが)。
ところが同じようなことを考える奴はどこにでもいるもので、ネット上はその手のゾンビ画像や情報で溢れかえり、もはや何が真実なのかわからないカオス状態になってしまう。かと言って既成のメディアは「事態は沈静化に向かっている」と編集された映像を用いた虚偽の報道を繰り返すばかり。結局信じられるのは自分の眼で実際に見たものだけ、という状態に世界は変貌してゆくのだ。
ロメロが言いたいことは、この点にあると思う。すなわち「映像を鵜呑みにするな」ということだ。だいたいこの『死の終焉』だって編集されたものなのである。例えばデブラが自分にとって都合の悪い部分をカットしなかったと誰が言えるだろう?
僕たちは、たとえそれが「ドキュメンタリー」とか「ノンフィクション」とか題されていたとしても、それを頭から信用できない時代に生きている。この、あらゆる映像が溢れかえる世界では、それが騙されないためのスキルなのだ。ロメロは「ゾンビ映画」のフォーマットで、その問題を提起してみせたのである。