ハプニング

シャマランが本当に描きたいもの

その異常な現象は、ある日、ニューヨークのセントラルパークから始まった。人々が次々に自殺し始めたのだ。この現象はアメリカ東部全土へ拡がり始めるが、判明しているのは、犠牲者たちは皆、死ぬ直前に言葉が意味不明になり、方向感覚を喪失するということだけだった。フィラデルフィアに住む高校教師エリオット(マーク・ウォールバーグ)は、友人たちと共に避難することにするのだが……。


07年1月5日付けの「2006年ベストテン」における『レディ・イン・ザ・ウォーター』のレビューで、僕は「M・ナイト・シャマランは『物語』というものに執着し続けている映画作家である(断言)。」などと書いているが、この『ハプニング』を見て、それがまったくあさっての方向の意見であると痛感した。だいたい頭が弱い人間なので、平気で浅薄なことを書き散らしてしまうのだ。僕が書くことなど、あんまり真に受けない方がいい。
さて、改めて述べさせていただくと、彼がこれまで一貫して執着し続けてきたのは、実は「家族」というテーマだったのではないか。
思えば『シックス・センス』は、シングル・マザーの母親と主人公の少年が心を通じ合わせるまでを描いたドラマであった。『アンブレイカブル』ではブルース・ウィリスが「超人化」していくに従って変化していく妻や息子との関係に焦点が当てられていたし、『サイン』は見たまんま、ある家族が(エイリアンの侵略をきっかけとして!)再生するまでの物語だ。『ヴィレッジ』だって、そもそも舞台となっている「村」は、ある共通の「痛み」を抱えるいくつかの家族からなるコミュニティだった訳だし、『レディ・イン・ザ・ウォーター』においては、主人公の中年男とプールの中の妖精は疑似家族的な関係を結ぶ。
そして、この『ハプニング』では、アメリカ全土を揺るがす集団自殺現象の最中で、その現象の原因の解明はついに行われないまま(!)、マーク・ウォールバーグとその妻が夫婦の絆を取り戻すまでのドラマが描かれるのだ。
つまりシャマランの映画において、霊能力だの宇宙人だの地球規模の異常現象などといったジャンル映画的ギミックは、その規模の大小にかかわらず、すべて主人公を含む「家族」の物語の背景に過ぎないのだ。彼が本当に描きたいのは、結局のところ、いつも主人公とその妻や子供などとの関係から生まれるドラマなのである。
『ハプニング』では、シャマランはその「本音」をこれまでになく、はっきりと観客にわかるように表現しているように思う。本作は彼にとっては転回点になる作品かもしれない。