アングスト/不安 (1983)

製作国:オーストリア
監督:ジェラルド・カーグル
脚本:ジェラルド・カーグル/ズビグニェフ・リプチンスキ
音楽:クラウス・シュルツ
出演:アーウィンレダー/シルヴィア・ラーベンライター/エディット・ロゼット/ルドルフ・ゲッツ 他
★★★★☆


快楽殺人者24時

とにかくヤバいらしいという評判に煽られて観に行ったこの映画、確かにヤバかった。「怖い」という評価もありますけど、僕は恐怖よりも嫌悪感を感じました。見てはいけないもの、見ない方がいいものを見せられてしまった感が強くて、なかなかに精神に来るものがあった。
で、「怖い」という感想を持つのも十分理解できるんですけど、だからと言ってこの映画がホラー映画に分類されて紹介されていたりするのを見かけると、それにはどうも違和感がある。本作はホラー映画じゃないと思うんですよ。いや、確かに劇中の殺人シーンの圧倒的な残酷さに恐怖心を喚起される人が多数いて、その観点からしてホラー映画と見なされるのもわかるんですが。
でも、例えばライオンの24時間の生態を見せるという目的のために製作された映画があって、その映画の中でライオンが草食動物を捕まえて食べるシーンがあったとする。ここだけを取り出せば、そりゃ残酷だし観客が恐怖を感じ得るので「ホラー」であると言えなくもない。しかし、この映画自体は決してホラー映画ではなく、ドキュメンタリー映画に属することは明らかじゃないですか。
同様に、本作はホラーではなく、「フェイク・ドキュメンタリー」枠に属するのではないかと思うんですよ。言わばライオンを観察するような目で、快楽殺人者である主人公の約24時間の行動を逐一追ってみました、という体(てい)の映画なのだと。
それを裏付けていると思うのが、この映画の殺人の描写の仕方で、上記のとおり凄く残酷ではあるんですが、同時に“絵”にならないように注意深く演出された描写がなされている。どういうことかというとホラー映画によくありがちな、首が派手に切断されてポーンと飛んだり、チェーンソーで人体がキレイに真っ二つにされたりという「“絵”として成立している描写」にはなっていない。決して洗練されておらず「美的」にならないように演出されているなと思うんですよ。
そして、そういう描写にした理由はといえば、本作の主人公が、彼にしか理解できない動機に突き動かされて、彼にしか理解できない焦燥感に駆られながら見ず知らずの一家を殺すという、病的な殺人者だからだと思うんです。つまりは、空腹のライオンが目の前の獲物を捕まえて食べるために、なりふり構わず必死に食らいつくのと同様であり、殺し方がキレイとか汚いとかなどと気にする余裕がある訳ないんで、そんな彼の殺人の場面を実際にカメラに収めたかのような、絶対に現実にはあり得ないドキュメンタリー映画として本作を制作しようと考えたからこそ、そのような描写になったのだと思う訳です。
まあ、そういうスタイルでこういう映画を撮ろうという発想そのものが「ホラー」じゃないかと言われたら、それには反論できないですが。

※11月10日、加筆修正

ランボー ラスト・ブラッド (2019)

製作国:アメリカ/スペイン/ブルガリア
監督:エイドリアン・グランバーグ
キャラクター原案:デヴィッド・マレル
原案:シルベスター・スタローン
脚本:マシュー・シラルニック/シルベスター・スタローン
音楽:ブライアン・タイラー
出演:シルベスター・スタローンパス・ベガ/アドリアナ・バラーサ/イヴェット・モンレアル/セルヒオ・ペリス=メンチェータ 他
★★★☆☆


「ワンマン・アーミー」の終わらない戦争

このブログをお読みいただいている方々には釈迦に説法かもしれませんが、アクション映画の中には「ワンマン・アーミーもの」とでもいうべき「超人的な主人公が(だいたい)一人で大量の敵を皆殺しにするのが売りという作品群」がありまして、まあ『コマンドー』(1985)なんかその知名度から代表格と見なされがちですが、僕はやっぱり「ワンマン・アーミー」と言えばランボーだろという立場です。なにしろシリーズ第1作『ランボー』(1982)の原作小説の邦題は『一人だけの軍隊』(デヴィッド・マレル著・ハヤカワ文庫)ですからね。由緒正しき「ワンマン・アーミー」という感じがする。
そのランボーも、前作『ランボー/最後の戦場』で長い「ワンマン・アーミー」生活に終止符を打ち、本作の序盤では、古い友人のマリアとその孫娘ガブリエラと共に牧場を営んで生活している様が描かれます。一見すっかり人のいいおじさん風になったランボーですが、実は牧場の地下に、ベトナム戦争時のベトコンが作っていたような迷路状のトンネルを一人で掘っており、例のナイフや銃器をそのトンネル内に保管している。なぜ何事も起きていないうちからこんなものを掘っていたのか? そして生活の合間に精神安定剤らしき錠剤を飲み下すランボーの姿もさりげなく描かれ、そこはかとなく不穏なムードになってきたところで、メキシコの人身売買組織にガブリエラが誘拐されるという事件が発生。奪還のために単身敵地に乗り込むランボーだったが……という展開になります。
ここまでで、敵の人身売買組織が如何にクズかというのを見せておいて、以後は、そいつらをランボーが復讐のために完膚なきまでに叩き潰す様をこれでもかと見せつけるというシンプルかつ王道の構成なんですが、その描写があまりにもトゥー・マッチ。組織のボスの弟の首を切断して、メキシコからアメリカに戻る車上からゴミみたいにポイッと路上に投げ捨てるシーンの酷薄さはすごいと思った。これ、ランボーじゃなかったらホラー映画に出てくるシリアル・キラーの所業ですよ。
その後、牧場を襲撃してきた人身売買組織のメンバーを例のトンネルに誘い込んでゲリラ戦に持ち込んでからも、ホラー映画でもやりすぎと言われるレベルの人体損壊描写が文字通りの出血大サービス。銃器やブービートラップなどによる様々なバリエーションの残虐な殺人が繰り広げられて、いくらこういうのに目がない僕でもちょっとお腹いっぱいになったし、クライマックスは当然組織のボスとの対決なんですが、対決っていうか単なる一方的な嬲り殺しであり、あまりのやりすぎ加減にちょっと笑いました。
ちょっと笑いはしたものの、しかしここまでハードコアな描写にしたのは何故なのかと考えてみるに、これは実はランボーの精神の荒廃を表現しているのではないかと思うんですよね。長きにわたる「ワンマン・アーミー」生活が破壊した彼の精神の在り様が、彼の戦い方にそのまま表れているんじゃないかと。そして、あのトンネルや精神安定剤のくだりはそのことを暗示しているのではないかと思います。
つまり彼は、故郷に帰ってはみたものの本当に平穏な生活を手に入れられてはいなかった。戦場からの帰還兵がPTSDに苦しむように、「ワンマン・アーミー」としての戦いの日々が彼の心に残した傷に苦しめられていたのだ、ということになり、全く救われない話だなとなってしまうんですが、本作が本当にシリーズ最終作ならば、ベトナム戦争の記憶に苦しむ帰還兵・ランボーベトナムでの戦闘をアメリカで再現してしまう第1作と見事に相似形を形作っていることになり、シリーズのラストとしては相応しいのかなとも思いました。

許された子どもたち (2020)

製作国:日本
監督:内藤瑛亮
脚本:内藤瑛亮/山形哲生
音楽:有田尚史
出演:上村侑/黒岩よし/名倉雪乃/阿部匠晟/住川龍珠 他
★★★★☆


今そこにある地獄

最近、「つくづくこの世は地獄だなあ」などと愚痴りたくなるニュースを目にする機会が増えているような気がするんですが、特に「地獄味」を感じるのは小・中・高生の「いじめ」がらみの事案についての報道に接した時です。とにかく被害者が不登校になったり、精神を病んだり、自殺にまで追いつめられたりするというのがしんどいし、ほとんどの場合において加害者は被害者と同年代の子どもであるというのも実に救われない感がひどくて「地獄だなあ」という気分になる。
そういった「いじめ事案」の中でも最悪の、いじめがエスカレートしたことによって被害者が殺されてしまったケースの「最悪さの構造」を詳細に分析し、加害者の視点に立ったフィクションという形に練り直して、グイグイと我々観客に突きつけてくるのが本作である、という言い方ができると思います。

※以下、物語の展開に触れておりますので、鑑賞後にお読みいただくことをお勧めします。

続きを読む

プリズン・サークル (2019)

製作国:日本
監督:坂上
アニメーション監督:若見ありさ
音楽:松本祐一/鈴木治行
★★★★★


「相応の罰」を受けた人たち

この映画を観ようと思った動機なんですが、単純に「日本初の刑務所内ドキュメンタリー映画」だったからです。刑務所ってどんな所なのか一度見てみたかったんす、というアホみたいな野次馬根性に駆られて観に行った。そして打ちのめされた。世の中には、観ている最中の人間を心の底から真顔にする映画というものが稀に存在するんですが、本作は間違いなくそのうちの一本です。
舞台となるのは「島根あさひ社会復帰促進センター」。名前からして刑務所っぽくないですが、センター内の内装や設備、ICタグCCTVカメラを使った受刑者の監視方法などからも、良い意味で刑務所らしからぬ先進的な印象を受けました。
本作の撮影スタッフは、日本で唯一、ここだけで導入されている、受刑者同士の対話をベースとした「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」という更生のためのプログラムに参加した、窃盗・詐欺・強盗傷人・傷害致死などで服役する4人の若者を丹念に追い続けていくわけですが、驚いたのは、この4人全員が、いじめ・虐待・貧困のいずれか、あるいは全てを必ず過去に経験しているということ。
よく児童虐待がらみの事件についての報道で「暴力の連鎖」「虐待の連鎖」などという言葉が使われているのを見るけれど、実際にこうやって、その「連鎖」がもたらした結果を突きつけられると暗澹とした気持ちにならざるを得ない。虐待犯やいじめ加害者には、是非とも本作を見せるべきだと心底思いますね。お前らが暴力を振るった結果、先々こういう不幸が再生産されるかもしれないんだということを知ってもらいたい。
そんな過酷な過去を持った彼らの、それぞれ自分の犯した罪に徐々に向き合っていく姿をカメラは捉えていくんですが、特に強く印象に残ったのは「健太郎」という受刑者が、プログラムの一環として、他の受刑者がロールプレイングとして演じる「自分の事件の被害者」と対話するシークエンスです。「被害者」たちが浴びせる「なぜ私を襲ったんですか?」などの言葉がぐさぐさと突き刺さって、彼は途中から涙を流し始める。被害者の味わった辛さ・恐れ・悲しみ・憤りなどが「健太郎」自身のもののように感じられたのだと思われる場面の一部始終に立ち会ったという感があり、震撼させられました。
でも、本作を観て「犯罪者なのに、こんな小綺麗な施設で特別なプログラムを受けられて、イイご身分ですなあ」みたいな感想を抱く人もいるかもしれないと思うんですけど、いや、これはガッチリ「相応の罰」を受けた人たちを捉えた映画だと思うんですよと反論したい。だって、この4人は「自分がやったことは、こんなにも酷いことだったんだ」と思い知らされるわけですから、考え方によっては死刑より辛いかもしれない。犯罪を一度でも犯した人間の「更生」について否定的な人にこそ観ていただいて、考えてほしい作品です。

レ・ミゼラブル (2019)

製作国:フランス
監督:ラジ・リ
脚本:ラジ・リ/ジョルダーノ・ジェデルリーニ/アレクシ・マナンティ
音楽:ピンク・ノイズ
出演:ダミアン・ボナール/アレクシ・マナンティ/ジブリル・ゾンガ/ジャンヌ・バリバール 他
★★★☆☆


このろくでもない「無情」の世界

本作の舞台は、フランス・パリ郊外のモンフェルメイユ。低所得者層が住む団地が立ち並び、犯罪多発地区とされているこの街に、ステファン(ダミアン・ボナール)という警官が赴任してきたところから物語はスタート。彼は、さっそくクリス(アレクシ・マナンティ)とグワダ(ジブリル・ゾンガ)という二人の先輩警官にパトロールに連れ出され、クリスたちが、団地を仕切るギャングや麻薬の売人などとがっちり癒着しているダーティーな一面を目の当たりにさせられるので、これは例えば『トレーニング デイ』(2001)のような悪徳警官の物語になっていくのかな?などと思いながら観ていると、ロマ(ジプシー)のサーカス団からライオンの子供が盗まれるという、なんだか牧歌的な事件が発生してから流れが変わります。
仔ライオンを盗んだ移民の少年・イッサを、何とか追い詰めたステファンたちでしたが、操作を誤ったのか無意識にやってしまったのか、とにかくグワダがゴム弾をイッサの顔に至近距離からぶち当てて大ケガを負わせてしまい、しかもその一部始終を、イスラム教徒の少年が操作していたドローンによって偶然撮影されてしまったことから、その動画データの争奪戦が勃発。データの外部への流出を絶対阻止したいクリスたちと、この際警察に協力して恩を売っておきたい売人、さらにデータを入手して警察の弱みを握りたいギャングといった面々がドローン少年を追いかける。ビビりあがった少年はイスラム教徒が経営するケバブショップに逃げ込み、店内で一歩間違えればお互いに殺し合いという緊張状態に陥ってしまう。
しかし、さすがにそこまで大事にはしたくない大人同士の思惑によって話し合いがなされて、その場は一応丸く収まるんですが、収まらないのが当の被害者のイッサとその悪ガキ仲間。打ち上げ花火と火炎瓶を武器にして、ギャングや売人、警察さえも襲撃し始める……。
まあね、警察・ギャング・売人・イスラム教徒が全員参加の血を血で洗うバトルロイヤルが始まる!と思って内心ワクワクしていたら、団地の悪ガキどもの暴動がクライマックスになってしまって、正直「あれ?」とは思ったんですが、観終わって思い返すと、これはむしろ必然的な流れなのかもしれんなと納得しましたね。だって登場する大人がほぼ全員、自分のことしか考えていない状態で、本来子供に大人が与えるべき「情」に欠けているどころか、そもそもそういう人としての大事な部分はどこかに置き忘れてきましたってな風情の人間ばかりなので、そういう大人が幅を利かせる社会では結局しわ寄せが子供の方に来てしまうのだから、そりゃ爆発もするよなと。
しかも、この映画、現実に起こったエピソードから脚本が作られているということなので、これはもしかすると既存の社会はもちろん、宗教にも反社会的勢力にも希望を見出せない子供たちが暴動(不登校、引きこもり、家庭内暴力や自殺という形にもなると思う)を起こすというのが21世紀の、この「無情」な世界における宿痾になっていくんじゃないか、そしてそれは日本も決して例外ではないのではないかと、そういうイヤな予感を感じました。

※9月2日、10月12日加筆修正

淪落の人 (2018)

製作国:香港
監督:オリヴァー・チャン
脚本:オリヴァー・チャン
音楽:オースティン・チャウ
出演:アンソニー・ウォン/クリセル・コンサンジ/サム・リー/セシリア・イップ 他
★★★★☆


自分のために他人の夢を叶えるということ

昔、上原隆の「ルポルタージュ・コラム」をまとめた本にハマって、新刊が出るごとに買って読んでいた時期がありました。「ルポルタージュ・コラム」というのは要するに取材して書くコラムということなんですが、彼の取材対象は、何かしらの苦境に立たされていたり、不遇な立場にあったりする人ばかりなのが特色です。例えば、子供が重い障害を持って生まれてきた作家、容貌に恵まれなかったために異性と付き合ったことのないОL、新宿でホームレス生活を送る男、夫に不倫されてから離婚までの経過を日記に書き続けた妻、戦力外通告されたプロ野球選手など。
そういう人々と会って、上原隆は“彼・彼女らがどうやって自尊心を保っているのか”を聴いていく。「つらいことや悲しいことがあり、自分を道端にころがっている小石のように感じる時、人は自分をどのように支えるのか?」(上原隆著・幻冬舎刊『喜びは悲しみのあとに』あとがきより)というのが、彼が追求し続けていたテーマだからです。新刊が出なくなって久しいので、今でもそのテーマにこだわっているのかはわからないですが。
さて、何故、上原隆についてこうも長々と書いたかといえば、本作を観て、彼のコラムを連想したからです。本作の主人公は、事故によって半身不随になって以来、失意の底で生活し続けているリョン・チョンウィン(アンソニー・ウォン)。電動車いすで移動することはできるものの、入浴や排泄などの介護が必要な彼は、住み込みのヘルパーとしてフィリピンから来たエヴリン(クリセル・コンサンジ)という女性を雇います。最初は言葉の壁に阻まれて、うまくいかなかった二人ですが、一緒に生活するうちにだんだん心が通じ合うようになる。そして、エヴリンが実は「写真家になりたい」という夢を諦めきれずにいることを知ったチョンウィンは、彼女の夢の実現をサポートしようとし始める。
チョンウィンがエヴリンの夢を叶えようとするのは、劇中でほのめかされている、彼女への恋愛感情のためだと捉える余地は勿論あります。でも僕はやっぱり「自分を道端にころがっている小石のように」感じてきたであろうチョンウィンの「自分を支える」ための切実な行動なのだと思うんですね。自殺することもできない絶望に打ちのめされてきた彼が、彼女の夢を叶えるために行動することによって、自分の自尊心を必死で支えようとしているんだと。そう考えれば、本作中で彼が「何故そこまでするのか?」と思ってしまうほどの「献身」を見せることにも頷けるというものです。
そして実はエヴリンもまた、チョンウィンのサポートによって夢を追うことにより、一度は失いかけた自尊心を取り戻していくのであり、ここでは、いわば理想的な「互助」の形が描かれているのだと思いました。

フォードVSフェラーリ (2019)

製作国:アメリ
監督:ジェームズ・マンゴールド
脚本:ジェズ・バターワース/ジョン=ヘンリー・バターワース/ジェイソン・ケラー
音楽:マルコ・ベルトラミ/バック・サンダース
出演:マット・デイモンクリスチャン・ベイルジョン・バーンサルカトリーナ・バルフ/ジョシュ・ルーカス 他
★★★☆☆


「わかる人」と「わからない人」のわかりあえなさについて

観る前は「プロジェクトⅩ」的な、「奇跡の実話」を感動的に謳いあげる映画かと思っていたんですが、全然違いました。本作は、ある非日常的な経験とそこから培った価値観を共有する二人の男――キャロル・シェルビー(マット・デイモン)&ケン・マイルズ(クリスチャン・ベイル)と、ル・マン24時間レースでフェラーリに勝つために、その二人を雇った企業――フォードに属する者たちとの対立の物語だと要約できると思います。
シェルビーとマイルズが共有する経験とは「レース」すなわち日常生活ではありえないような速度で車を走らせる競技に参加することであり、この経験値を豊富に積んできた彼らは、当然のごとく、そこから彼らが得た価値観に基づいて勝利のために最善を尽くそうとする訳ですが、この二人に「勝て」と命じている当のフォードが、事あるごとに邪魔をするという矛盾が生じる。なぜかというと、フォードとしては「ル・マンで勝つ」と「フォードの面子を守る」という二つの目的を同時に達成したいからで、「ル・マンで勝つ」ためには会社の面子などというノンキなことなど言ってはいられない非情なレースの現実を知る二人とはかみ合うはずもない。
結局、この平行線は最後の最後まで続き、フォードの人間たちは「ル・マンで勝つ」ということの意味やその価値をついに理解できず、対立は解消されずに終わります。しかし、それは仕方のないことであって、なぜならばシェルビーとマイルズの経験と価値観は、もともと言語では他人に伝達できない領域に属するものだからです。
だから、ラストシーンでシェルビーが「言葉は役に立たない」という台詞を吐く時、これは、実はこの映画のテーマについて語っているのだと思いました。