ブルータル・ジャスティス (2018)

製作国:カナダ/イギリス/アメリ
監督:S・クレイグ・ザラー
脚本:S・クレイグ・ザラー
音楽:ジェフ・ヘリオット/S・クレイグ・ザラー
出演:メル・ギブソンヴィンス・ヴォーンジェニファー・カーペンタードン・ジョンソン 他
★★★★☆


「暴力の伝道師」からのメッセージ

この記事に添付した、本作のポスターのキャッチには「暴力の伝道師S・クレイグ・ザラー」とありますが、彼の映画を2本(本作と『トマホーク ガンマンVS食人族』)観て、彼が書いた小説『ノース・ガンソン・ストリートの虐殺』(ハヤカワ文庫)を途中まで読んだ段階の僕からしたら「いや、まさにこの呼び名はピッタリだなあ」と思う。でも、より正確に言えば「暴力(がもたらす恐怖)の伝道師」では、とも思います。

※以下、本作および『トマホーク ガンマンVS食人族』、『ノース・ガンソン・ストリートの虐殺』の内容に触れておりますので、それぞれ鑑賞・読了後にお読みいただくことをお勧めします。

どういうことかというと、映画にしろ小説にしろ彼の(少なくとも上記の)作品中での暴力は、登場人物たちに絶望的な恐怖を与えるレベルのものとして描かれていると思うからです。
例えば『トマホーク~』では、食人族にさらわれた人々を救出するために追跡してきた保安官一行が、ようやく敵地にたどり着いた途端に急襲されて捕まってしまい、骨で作った斧や刃物によって人間が生きたまま解体される地獄の状況に叩き込まれるし、『ノース・ガンソン~』では、犯罪が多発する極寒の街に転勤してきた中年の刑事が、警官ばかりが無残な方法で次々に殺害される事件に巻き込まれ、彼の家族も、彼の留守中に襲ってきた犯人によって「何でそこまで?」と言いたくなるほど苛烈な暴力の犠牲になってしまう。
そして本作では、メル・ギブソンヴィンス・ヴォーンが演じる停職を食らった刑事コンビがつけ狙う、ヴォーゲルマンという男がリーダーの銀行強盗トリオによって、観ているこっちの精神も削られるような凄惨な暴力が延々と繰り広げられます。
まずヴォーゲルマンの手下の、最後まで素顔がわからない二人組が強盗(片方はコンビニ、もう一方は二人のメキシコ人青年を襲う)を働くんですが、それぞれがその場にいた人間を皆殺しにして金を奪ったにもかかわらず合理的な目的は全く無し。銀行から金塊を盗むという大仕事が控えているのに単に意味なく強盗殺人をしてみただけ。そして、いよいよ本番の銀行強盗では、女性行員の手首を吹き飛ばしたり支店長の×××を切断したりと、目的の金塊そっちのけで残虐行為のやりたい放題。さらに人質にとった女性を利用してメルギブたちを殺そうとする際の卑劣すぎる手段とか、連中の車のキーを呑み込んでしまった運転手に対するえげつない行為とか、この手の描写はさんざん観てきた僕でさえ、あまりの非道さに寒気がするレベルなんですよ。これら一連の行動の何が怖ろしいかというと、もっとスマートにことを進めようと思えばいくらでもできるだろうに、わざわざ不要な死体の山を積み上げていることで、こいつら沈着冷静なようでいて、実は完全に狂っているのではないか?とまで思わずにはいられない。
この徹底的に非情な暴力描写は、しかし恐怖をもたらすだけのものではない。彼の作品では、理不尽な暴力に対抗できるのは理性を失わない人間だけだということが、暴力描写が凄惨であればあるほど強調されるのだと思うんですよ。『トマホーク~』でも『ノース・ガンソン~』でも生き延びるのは理性に従って行動した者たちです。そして本作も例外ではない。最後の最後まで理性的に振る舞おうとした者だけが、地獄をくぐり抜けて生き残る。
S・クレイグ・ザラーの、深刻な恐怖をもたらす暴力描写は、その恐怖ゆえにともすれば批判にさらされることもあると思いますが、それは彼にとっては、作品を通じて人間の理性の重要性を訴えるために必要なものなのだと僕は思っています。