ベイビー・ドライバー(2017)

製作国:アメリ
監督:エドガー・ライト
脚本:エドガー・ライト
音楽:スティーヴン・プライス
出演:アンセル・エルゴートケヴィン・スペイシーリリー・ジェームズジェイミー・フォックス 他
★★☆☆☆


ベイビー、逃げるんだ

主人公が銀行強盗とか泥棒とか殺し屋とか、要するに犯罪者であり、何らかの理由で警察やら昔の仲間やらマフィアやらに追われるという映画は腐るほどありますが、僕はそういう映画を観ると、たとえとんでもなく極悪非道で全く同情の余地が無いような奴であろうとも、必ずと言っていいほど主人公が逃げ切ることを願ってしまいがちなんですよ。でも大抵の場合、その手の映画のラストでは、主人公は死ぬか逮捕されてしまうんですが。
それで本作なんですが「ケイパー・ムービー(強奪もの)」+ミュージカルという趣向のなかなか斬新な作品で、オープニングの銀行強盗から、主人公・ベイビー(アンセル・エルゴート)の天才的なドライビングテクニックを駆使した逃走までを描いたシークエンスで、これは間違いなく面白くなりそうだ!と期待感を煽られまして、実際途中まではかなり楽しかったんですが、ベイビーが逃がし屋の仕事から無事に引退した後、再度、ボス格のケヴィン・スペイシーに強盗を手伝うことを強要されてからの展開が、もうひたすらにダメだこりゃって感じでした。
このままじゃいつまで経っても足を洗えないから恋人のデボラ(リリー・ジェームズ)と一緒に逃げ出そうと決意するのは、わかる。ところが逃げるための「計画」が全くないのには唖然としましたよ。アホっぽい顔してるなと思っていたら本当にアホだったというね。見るからに知能犯のケヴィン・スペイシーをはじめとする海千山千のプロの強盗たちを向こうに回して、無事に逃げおおせるためにはそれ相応の作戦が絶対に必要に決まってるじゃないですか。それが、ただの行き当たりばったりなんだもんなー。
その行き当たりばったりが結果的に上手くいく手助けをすることになるケヴィン・スペイシーのあまりにも突然な、あの心変わりにも戸惑いしか感じませんでした。実は密かに自分の息子みたいに思ってましたとか伏線を張っててくれれば、まだ納得いったんですけどね。まあ一番良かったのは、強盗グループ内の実質的なナンバー2であるジェイミー・フォックスとの仲間割れ(強盗グループ内部での主導権争いとか、あるいはケヴィン・スペイシーが実は警察と通じていたのがバレるとか)が勃発し、その隙に乗じてベイビー達はかろうじて危機を脱する…という感じの流れになることでしたが。
で、そのジェイミー・フォックスが最後にベイビーと対峙する相手でないのも明らかにおかしいと思いましたね。それというのも、あの強盗たちの中で最もベイビーを目の敵にしていたのは彼だからで、その理由はデボラが勤めるダイナーで語られた「強盗こそが己の天職であり生きがいなのだ」という彼の「強盗哲学」から推測できます。そんな彼にとっては、仕事を嫌々やってきて、自分の手を汚そうとしなかった上に足を洗おうなどとするベイビーは決して許せない存在に決まっているからです。つまり、全く対極的な関係だったわけで、だからこそ最後に立ちふさがるのは彼でなければならなかったと思うんですね。
しかし、何よりも一番気に入らないのは終盤、警官隊に行く手を塞がれた後です。この映画にとっては最もつまらん着地点を選んだなあと、本気で腹が立ちまして、「いや、逃げろよ!」と後頭部を張り飛ばしてやりたい衝動に襲われました。
何故、犯罪者が主人公だと、死ぬか、もしくは逮捕されるというラストを選ぶ作品が多いのか? そりゃいろいろ理由はあるんでしょうけど、いいじゃない、映画なんだから。夢見させてくださいよ、とつくづく思いました。途中まで21世紀版『トゥルー・ロマンス』みたいだな、と思ったんだけどなあ。ああいう感じのファンタジーに着地してほしかったんだけどなあ。


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