ジョーカー (2019)

製作国:アメリ
監督:トッド・フィリップス
脚本:トッド・フィリップス/スコット・シルヴァー
音楽:ヒルドゥル・グーナドッティル
出演:ホアキン・フェニックスロバート・デ・ニーロ/ザジー・ビーツ/フランセス・コンロイ 他
★★★☆☆


道化よ 道化よ 何故踊る

この映画を2回観て、ああでもないこうでもないとグズグズ考えていたら、すっかり年末になってしまいました。完全に時機を逸した感はありますが、思う所を書いておこうと思います。
物語だけを見れば、本作は呆れるほど単純明快です。主人公アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は徹頭徹尾、親や社会や彼を取り巻く人間たちの「被害者」であって、そこに疑問を差し挟む余地は微塵もない。まるで「ジョーカー」という終着駅を目指してレールの上をひた走る列車のような存在としてアーサーは描かれます(劇中、列車のシーンが度々挿入されるのも、初めての殺人の舞台が地下鉄なのも、彼が逃れられない運命のレール上にいることを暗示しているように思える)し、彼がそうならざるを得ないように逃げ道を一つひとつあからさまに潰す作劇が為されている。
こういう一人の人間が転落するに至る話というのは、本作の監督が影響を受けたという『タクシードライバー』をはじめ古今東西珍しくはないんですけど、本作においては転落へ向けての作為があまりにも度を超えて明白すぎるので、こんなに客に何も考えさせない映画でいいんすかと思ったんですけど、これはアレですね、「保険」じゃないですかね。いくらバットマンフランチャイズとはいえ、内容は地味だしR指定だし、せめて極力わかりやすくしようということだったんじゃないでしょうか。また、アーサーとまだ幼いブルース・ウェインが実は異母兄弟なのでは?という疑惑が劇中で持ち上がるのも、バットマンが登場しないのは仕方がないとしてもファンのことを考えて、関連付けはしておこうという「保険」だったんじゃないかと邪推してます。
それはともかく、このようなとにかくわかりやすいのが取り柄でファンへの目配せもバッチリという、そのまんま作ったら平均的な凡作にしかならないシナリオに準じて撮られた映画でありながら、どうにも不穏かつ魅力的な輝きを放つ場面が何か所かあって、それはアーサーが踊るシーンなんですね。
「ジョーカー」と言えば「笑う男」なんですが、アーサーは精神に障害を持っている上に緊張すると発作的に笑ってしまうという病気も患っている。だから彼が笑っていても、それが彼のリアルな感情表現なのかどうかは、恐らく彼自身にも明確に区別がつかない。そんな男が本当に楽しい時はどうするかというと踊る訳です。この「ジョーカー」像はこの映画における素晴らしい「発明」と言ってもいい。
地下鉄で3人の男を射殺したあとに逃げ込んだトイレで、あるいはマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)を殺すために彼の番組に出演するのに際して初めて「ジョーカー」としてのメイクをしながら、彼は踊る。つまり彼は真実、殺人に喜びを感じる人間であるということがわかるので心底ゾッとさせられると同時に、そのダンスが非常に美しいために心をかき乱されるんですよ。この「ジョーカー」を成立させるためには、このような感情表現としてのダンスを踊る才能に恵まれたホアキン・フェニックスのキャスティングは不可欠だったろうなと思う。
だから、この映画が、お話はどうにも平板なのに忘れがたいという印象を僕に残したのは、ひとえにホアキン・フェニックスが主人公を演じたからであるというのが僕の結論です。