マーウェン(2018)

製作国:アメリ
監督:ロバート・ゼメキス
脚本:ロバート・ゼメキス/キャロライン・トンプソン
音楽:アラン・シルヴェストリ
出演:スティーヴ・カレルレスリー・マン/メリット・ウェヴァー/ジャネール・モネイダイアン・クルーガー 他
★★★☆☆


アウトサイダーズ・トイ・ストーリー

2000年4月8日、ニューヨーク州キングストンのバーで絡まれた5人の男に暴行されて、瀕死の重傷を負わされてしまったマーク・ホーガンキャンプは、何とか一命は取り留めたものの、暴行を受ける以前の記憶のほとんど全てを失ってしまい、さらにPTSDにも悩まされるようになってしまう。退院後、自宅の庭に第2次世界大戦下のベルギーにあるという設定の架空の町「マーウェン」のジオラマを作り上げ、そこに自分を投影したG.I.ジョー人形の「ホーギー大尉」と、それぞれに実在のモデルがいるバービー人形の5人の美女たちを配置して様々な場面を演じさせた写真を撮り始めた彼は、その写真が評価されてアーティストとして一躍有名になる……。
本作のプロットは、上記の実話に即していると思われますが、それはさておき彼が何故こういった写真を撮り始めたのかという点については、本作中では全く説明されません。
これはよく考えると変な話で、この映画を紹介しているいくつかのサイトであらすじを読むと、表現の仕方は違えど「一種の自己セラピーとして写真を撮り始めた」とされているのに、肝心の映画の中では、そんなことは主人公のマーク(スティーブ・カレル)をはじめ誰の口からも一言も語られないんですよ。
もちろんそこを省略していても、彼が撮る「マーウェン」では「ホーギー大尉」が、いつも暴行事件の犯人たちと同じ人数である5人組のナチスの兵士に襲われ、捕まったり拷問されたりしているところを女性たちによって救われる(ちなみにマークが瀕死の重傷を負って路上に倒れていたところを発見して救ったのはバーのウェイトレスだったと本作中では語られます)というストーリーが繰り返されるので、これは彼にとって自分のトラウマを癒すための行為なのかなあと推測することは十分可能ではあります。
でも、マークにとって「マーウェン」を撮るのは自らの精神を癒すための行為なのであるとゼメキスがあえてハッキリさせなかったのは、「男らしさ」の象徴のようなG.I.ジョーが常に被虐的な立場に立たされるシチュエーションに固執した写真を撮り続けるという、いわば彼の写真の「アウトサイダー・アート」的な側面にこそ強く惹かれたからではないでしょうか。
何故そう思うかというと、「マーウェン」では「ホーギー大尉」救出に際して、バービー人形たちによる「大人向けのトイ・ストーリー」とでも言うべき過激なナチス虐殺シーンもまた繰り返し演じられるからです。それは「自己セラピー」の範疇を通り越して、強烈な女性崇拝のイメージにまで達している。そして、このような世界を構築してしまわざるを得ない人物として描かれるマークは(ネタバレになるので伏せますが)ある「秘密」を隠し持っていて、それが彼の「マーウェン」に影響を及ぼしているのだと、ゼメキスは実は冒頭の「ホーギー大尉」がバービー人形たちに出会うシークエンスで暗示しているわけです。要するに少なくとも「マーウェン」のパートについては、マークの写真の持つ「アウトサイダー・アート」的要素を強調しているとしか思えない演出が為されている。
ゼメキスが、マークの写真の「アウトサイダー・アート」性にこそ魅せられて本作を作ったと思われる傍証はもうひとつあって、それはクライマックスで唐突に繰り広げられる『バック・トゥ・ザ・フューチャー(以下BTTF)』のセルフ・パロディです。第2次世界大戦下という設定の「マーウェン」で何故『BTTF』のパロディが演じられるのか? それは『BTTF』が実は“アンチ「男らしさ」”についての映画でもあったからだとしか思えないんですね。
つまりゼメキスは「男らしさ」について葛藤する自分の内面を生々しく表現する写真を撮る人物としてのマークに興味があった訳で、そういった写真を撮ることでPTSDを克服していった彼にはあまり興味がなかった。その本音が漏れ出てしまって、マークが徐々に回復していく姿を描く感動のドラマにしなければならなかったのにし損ねた、というのが僕の本作についての解釈です。


※8月28日~31日加筆修正