ダゲレオタイプの女(2016)

製作国:フランス/ベルギー/日本
監督:黒沢清
脚本:黒沢清
音楽:グレゴワール・エッツェル
出演:タハール・ラヒム/コンスタンス・ルソー/オリヴィエ・グルメマチュー・アマルリック 他
★★★☆☆


男の妄執、女の超然

冒頭、主人公・ジャン(タハール・ラヒム)が駅に降り立つファーストシーンから、もうこれまでの黒沢清の映画と同じ空気が感じられ、もはやロケ地にも俳優にも使用される言語にも左右されることなく、ただ黒沢清がカメラを回せば、そこに黒沢清的世界が現れるのだという事実に、ちょっと感動した。
さて、そのジャンが、写真家ステファン(オリヴィエ・グルメ)の屋敷を訪れるや否や、さっそく女性の亡霊が出現する。これは「幽霊屋敷」ものになるのかな?と思っていると、ダゲレオタイプで娘のマリー(コンスタンス・ルソー)を撮影することに異常に執着しているステファンの姿が描かれるにつれてサイコスリラーかな?とも思わせる。ところが中盤に起こる、あるショッキングな出来事を境に犯罪映画となり、最終的にはホラー的なオチに着地するという、これまた黒沢清らしいジャンル横断的な作品なのだった。
そのようにテイストは二転三転するのだが、ストーリーの芯としては、女性キャストの全員が獲得している、死をも超越した超然とした態度の前に、金や写真に執着しすぎた男たちが破滅していくというモチーフが貫かれている。黒沢清がこんな風に女性を描いた作品をこれまで観たことはなかったので、非常に興味深かった。監督の男女観を反映しているのではないかなどとゲスなことをチラッと思ったりもした。
しかし、面白かったかと訊かれれば「うーん」と唸ってしまうだろう。とにかく、あの「嘘」に乗れるか乗れないかだと僕は思う。あれに乗れれば面白いと言えるかもしれないが、僕は乗れなかった。
映画の中における「リアル」という点について、『岸辺の旅』『クリーピー 偽りの隣人』そして本作と、いくら映画とはいえそれは如何なものかという部分がどうも、ある。各作品の中の「リアリティ・ライン」を何の理由もなく、突然踏み越える(踏み外す)瞬間がこれらの作品にはあって、「自由だなあ」と感心する反面「自由すぎやしないか」という危惧もある。意図してやっているのなら(勿論そうだろうと思うが)、その意図がどうにも見えないという感じである。

※2020年10月18日加筆修正