この世界の片隅に(2016)

製作国:日本
監督:片渕須直
原作:こうの史代
脚本:片渕須直
音楽:コトリンゴ
声の出演:のん/細谷佳正岩井七世潘めぐみ 他
★★★★★


でも、生きるんだよ

この作品をめぐってネット上がもの凄くにぎわった時期があって、その折にいろいろな感想や意見を目にした。中でも本作が「反戦映画」であるか否かという点についてのやり取りが目立ったという印象を持った。
ところが、いざ実際に観てみると、どうも「反戦映画」の一言では表しきれない作品であると思ったし、というか、およそ「○○映画」という呼称があてはまらない作品じゃないかとも思ったのである。
なるほど本作は、第二次世界大戦下の日本で生きる主人公・すず(声・のん)が生活物資の不足に悩まされ、米軍による再三の攻撃に怯える生活を余儀なくされる姿を描いている。しかし彼女および彼女の周辺の人々は基本的には戦前とあまり変わらない生活を送り続けるのである。少ない食料をやりくりして何とか日々の食事を準備し、いよいよ物資が不足すればヤミ市で調達し、夫以外の男性に心を揺り動かされたり、友達を作ったりもする。いつ、誰の生命が危険に晒されるかわからない過酷な日々が続いても、時に笑ったり、泣いたり、怒ったりしながら淡々と暮らし続けるのだ。
そのような状況下で生きること自体、悲劇的であるし、主人公が大きな犠牲を払うことになるのも、そもそも戦争にその原因があると言えるのだから「反戦映画」と呼んでも全くの間違いではないのだが、それは本作の一面にすぎないと僕は思う。
本作において、すず達の生活を抑圧し、それまでの日常を決定的に変えてしまうものは確かに「戦争」である。しかし、地震津波・台風などの天災、航空機や鉄道などの大規模な事故、あるいは無差別テロなどもまた(戦争とは比較にならないかもしれないが)多くの人々の日常を破壊し、深刻な変更を強いる力として作用し得る。そのような、個人ではどうすることもできない「大きな力」によって、それまでの日常が不可逆的に変貌させられてしまったとしても、人は生きるものなのだという恐ろしく普遍的なことこそが本作では語られているのではないだろうか。
「大きな力」によって日常が蹂躙されて、日々絶望に直面するような状況になっても、腹が減ったら飯を食うし、裸じゃ暮らせないから服をなんとかするし、なんなら家の修理だの部屋の掃除だのもするし、可笑しなことが起きたら笑いもするし、時にはセックスだってする。この映画が描いているのは、そういう人間の、決して戦時下に限定されない「生」の姿だと思うのである。「美しい」とか「醜い」とか、「正しい」とか「間違っている」とか、「悲劇的」とか「喜劇的」とか、「右翼的」とか「左翼的」とか、「反戦映画」とか「反・反戦映画」とか、そういった思想や価値判断などの全てを包含する「生」そのものをありのままに描く試みがここでは為されているのではないか。
したがって、この映画は観る人によっては希望を語っているようにも諦念を語っているようにも見えるだろう。つまり「どんな状況でも人は生きられるものなのだ」という希望と「どんな状況でも人は生きてしまうものなのだ」という諦念の両方が語られているのである。被爆後の広島で、すずが、ある奇跡的な出会いを経験するのと前後して、すずの妹の暗い未来が暗示される終盤に、そのことが端的に表現されているように思う。
しかし、である。結局のところ、生きていなければ、すずにあの出会いは訪れなかったのだ。生きてさえいれば、そういうこともごく稀に起こる(というか、死者は何も経験できない訳だが)と信じて、果たして本当にあるのかないのかわからない「良いこと」がいつか自分にも起こるかもしれないという可能性に賭け続けるということ。「でも、やるんだよ」ならぬ「でも、生きるんだよ」という姿勢をとり続けること。それでしか諦念を振り払うことはできない。そんなことを考えさせられた作品だった。