シン・ゴジラ(2016)

製作国:日本
総監督:庵野秀明
監督:樋口真嗣
脚本:庵野秀明
音楽:鷺巣詩郎
出演:長谷川博己竹野内豊石原さとみ 他
★★★★☆


これは「ゴジラに『対処する』人々を描いた群像劇」である

レビューを書くのは、約半年ぶりである。
何故かというとブログどころではなかったからだ。細かい経緯は省略するが、昨年の4月くらいから僕は経済的に苦しい生活を続けてきていて、その状況を変えるべくいろいろやってはみたものの、今年に入っても一向に変わらず、僕はとうとう自分が「貧乏」になってしまったことを自覚せざるを得なくなった。自分が「貧乏」であるということを認めることは僕にとっては耐え難いことだった。しかし、映画はもちろん、好きなことには何も金を使うことができず、それどころか食べるものにかける金さえ節約しなければならない状態が「貧乏」でなくてなんだろう。
という訳で僕は僕が「貧乏」であることを認めることにした。「底辺」「下流」「貧困層」などとひどい呼ばれ方をされてしまうようなカテゴリーに属する人間であり、「SPA!」の特集に取材記事が載っても全然違和感がないタイプの人間であることを潔く自認することにした。そして、その状態を少しでも打開すべく、極めて地道な手段を選択した。つまり「副業」を始めたのである。
その仕事についての詳細はもちろん書けないが、ここでは、ある施設における清掃がメインの仕事としておく。清掃と言っても床にワックスを塗るとか、機械を使って洗浄するとかそういった専門的なものではない。通路とトイレにあるゴミ箱の中のゴミを回収して、集積場に運ぶだけである。しかし、これが地味にキツい。
例えば、最近多い、気温が体温並みのクソ暑い日だと、一応「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」「ペットボトル」などと分けられているゴミ箱の全てが、空のペットボトルやアイスコーヒーの容器であふれ出しそうになっていることがよくある。時間がないので、それらを素手でつかみ出してゴミ袋につっこんでいく。トイレのゴミ箱には、噛み捨てたガムだの使用済みの歯ブラシだのも捨てられている。そういったゴミも素手で取り出してゴミ袋に入れる。
単純な作業ばかりだが、他にも細々としたルーティンワークがあり、慣れないうちは失敗もした。明らかに年下の社員に「あんた、頭大丈夫か?」的なことを言われた時にはさすがに怒りがこみ上げてきたが、何も言わずに、ただ謝って仕事をした。
すべては金のためだ。どんなに不潔だろうが自尊心が傷つこうが、仕事をこなせば金が入る。おかげで家計は少しはマシになり、こうして世間で評判の『シン・ゴジラ』を観に行くことができて、レビューも書く気になれたという訳である。いやあ、お金って本当にいいものですね。
以下、ようやく本題に入るのだが、上記に長々と書いてきたような事情により、現状の僕には「底辺バイアス」とでも呼ぶべき認知の歪みが発生しているので、読む人によってはまるで共感できないだろうが、そこは「こいつは貧乏をこじらせて考え方が歪んでいるのだ」とでも思ってもらい、ひとつ大目に見ていただきたい。



(以下ネタバレあり)
さて、本作は、突然日本に出現した「巨大不明生物」ことゴジラに「対処する」人々を描いた群像劇である。
単純に「ゴジラと戦う人々を描いた群像劇」とは書かないのにはもちろん訳がある。お気づきの方もいると思うが、本作の登場人物たちは「ゴジラを駆除する」とは言うが、「殺す」とか「倒す」という言い方をしない(唯一「巨大不明生物特設災害対策本部巨災対)」の一員である自衛隊員が「倒せる」という言い方を含んだ台詞を発するシーンが後半にあったと思うが、他には確認できなかった)。ゴジラによって家族や友人・知人などを殺された人ならば「ゴジラを殺せ」「ゴジラを倒せ」と言うだろうし、叫ぶだろう。しかし、本作ではそういう立場に置かれた人々を意図的に「省略」しており、その代わり、直接的にはゴジラによる被害・被災を被ってはいないが「仕事」として「ゴジラを何とかしなければならない」立場の人々の姿をひたすら描いているのである。何故なら、仮に実際に「巨大不明生物」が出現した時、最前線に立たされるのは、そのような人々だからだ。だからこそ、本作は「ゴジラに『対処する』人々を描いた群像劇」なのであり、本作を「もしも現代の日本にゴジラが出現したらどうなるのか?」というシミュレーション的な内容にすることを選択した時点で、こうなることは決定していたと言って良い。
しかし彼らが「対処」しなければならない相手は、(劇中で判明するのだが)「歩く原子炉」とでも呼ぶべきとんでもない生物であり、自衛隊が総力をもって攻撃しても傷さえつけることのできない恐るべき怪物である。しかも先述のように別にゴジラに恨みがある訳でもなく「仕事」として取り組んでいる訳だから、普通なら逃げるし、逃げても許されるところだろうとヘタレな僕としては思うのだが、主人公・矢口蘭堂長谷川博己)をはじめとして誰も逃げない。ただがむしゃらに自分の仕事をし続ける。登場人物のほとんどが政府サイドの人間だから当然だと思われる人もいるだろうが、例えば僕が政治家だったとしても、あるいは官僚だの自衛隊員だのだったとしてもきっと逃げだすだろう。本作の終盤、僕でなくても誰でも逃げだしたくなるのではないか?と思われるほどの危機的な状況下に置かれてしまうにもかかわらず、結局誰ひとり仕事を投げ打って逃げださなかったのは何故なのか。
その理由については、登場人物の一人・政調副会長の泉(松尾諭)がたびたび口にするように、政治家ならば将来のポストをにらんで、ここで手柄を上げておきたいという野心もあっただろうし、役人ならゴジラ対策に関わった経験を出世につなげたいとか、学者ならゴジラの第一人者として学界で認められたいとか、そういう世俗的な欲望もあったのかもしれない。しかし僕は結局のところ一番大きな理由は「職業倫理」だったのだと思う。僕ごとき俗物は「仕事に命まで賭けてられないから逃げてしまおう」と思うところだが、彼らは逆に「これが自分の仕事だから逃げない(逃げられない)」と考えたのだ。いみじくも國村隼が演じる統合幕僚長が最後の作戦決行前に、自衛隊員の犠牲を案じる矢口に向かって「仕事ですから」と言ったことが、それを裏付けているように思う。
だから、本作において、日本は、事実上矢口たちをはじめとする日本人の「職業倫理」によってゴジラの脅威から救われるのだと言っても差し支えないと思う。はっきり言って庵野秀明がこういうある意味「日本人論」的なストーリーを打ち出してくるとは夢にも思わなかったので驚いた。
そんな「職業倫理」なんて持ち合わせない、恐らくそれゆえに現在のような生活に甘んじている僕にとっては「耳が痛い」感じもあるのだが、そこさえ目をつぶれば本作は「怪獣映画」としてはもちろんのこと「SF映画」としても素晴らしく面白い。複雑な心境だが正直なところである。

※一部修正しました(8月17日/19日/27日)