ミスト

霧が晴れたら地獄が見えた

のどかな田舎町を激しい嵐が襲った翌日、デヴィッド(トーマス・ジェーン)は湖の向こう岸に発生した異様な霧を訝しがりつつ、息子ビリー(ネイサン・ギャンブル)と共にスーパーマーケットへ買い出しに行く。やがて霧は、買い物客で混雑するスーパーマーケットに迫り、呑み込むように覆っていく。人々が店内に閉じこめられる中、一人の男が駆け込んできて叫んだ。「霧の中に何かがいる!」……。


ご存じスティーブン・キングの初期の中編を、フランク・ダラボンが映画化した、この作品。
とにかく傑作だから黙って観とけ、で終わらせてもいいんだが、それじゃあんまりなので、例によってゴタクを並べてみる。
あくまでも私的な見解だが、僕はこの映画における「霧」を、僕らをとりまく「現実」のメタファーとして捉えた。
そもそも現実とは、まるで、この作品で描かれる、「霧」に包まれて何も見通すことができなくなった状況のようなものだ。僕らは手探りで前に進むことしかできず、運が良ければそのまま歩き続けることができるが、運が悪ければ最悪の場合、死ぬ。
そして、およそどんなことでも起こり得るということも、現実と「霧」の中との共通点である。例えば、あの2001年9月11日まで、テロリストがハイジャックした飛行機を世界貿易センタービルに衝突させるなどという事態が起こると、一体誰が予想しただろう。しかし、それは起こった。「霧」の中にどんな怪物がいるのか予想がつかないように、現実とは何が起こるのか全くわからないものなのだということを、あの日以来アメリカをはじめ、世界中の人々が意識的にしろ無意識的にしろ深く認識したに違いない。
そう、この不条理極まりない「霧」=現実の前では、人間など風に吹かれて舞う塵のようなものにすぎない。人々の運命は、ただの偶然に委ねられており、理性も信仰も何の助けにもならないのだ。それどころか、神にすがることで逆に犠牲を大きくしたり、なまじ理性的に行動しようとするあまり、最悪の事態を招いたりすることだって、勿論起こり得るのである。この作品は、その冷然たる事実をいやという程、観客に突きつける。
さあ、『ミスト』を見よ。そして、この世には死を超える絶望が在り得ることを知れ。