ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

荒野のバチあたり一代男

20世紀初頭、ある牧場の地下に石油が眠っているという情報を得た石油採掘業者ダニエル・プレインビュー(ダニエル・デイ=ルイス)は、まだ幼い養子のH.W.(ディロン・フレイジャー)と共にアメリカ西部のリトル・ボストンという小さな町を訪れる。彼はそこで見事に石油を掘り当てるのだが……。


この作品、完全にダニエル・デイ=ルイスの独壇場と言ってもよい。彼が演じるのは、恐ろしくアクが強く、強烈なキャラクターだ。劇中、自ら語るシーンがあるのだが、彼は誰も愛することができず、だから誰にも愛されない。神も信じていないと公言する。信じるものは自分と石油と金だけというような、どうにも因業なオヤジなのである。
したがって彼にとっては他人は皆、敵と味方の二種類にしか分類されないのだが、特にダニエルに敵視される人物が、町にある狂信的なキリスト教聖霊派教会の牧師を務めるイーライ・サンデー(ポール・ダノ)である。例えば、ダニエルはイーライに金を払う約束をするのだが、金を受け取りに来たイーライに難癖をつけてぶん殴り、顔を泥の中に押しつける。もちろん金は払わない。これじゃ、まるで「いじめ」である。
その後も二人の間にはいろいろな確執が起こり、ついにラストのような事態に立ち至る。
それにしても、なぜダニエルは特にイーライを目の敵にしたのだろうか。もちろん無神論者だからという理由はすぐに思い浮かぶ。しかし、それは実は嘘だったのではないか、というのが僕の推測である。
彼の過去は劇中では語られない(求められてもダニエルは語ろうとしない)。彼はなぜ故郷を捨てたのか、なぜ妻と別れたのか。
語ろうとしないのは、それらの記憶が彼の心の傷になっているからではないのか。そして、そのために彼は他人はもちろん神も信じられない人間になってしまったのではないだろうか。
そう実は、彼は誰よりも神による救いを求めていたのではないだろうか。だからこそ牧師でありながら、自分と同様に金に執着する俗物であるイーライを許せなかったのではないか。
ラストシーンの、絶望を通り越した、呆けたようなダニエルの姿は、求めても、ついに神の救いを得られなかった孤独な男の成れの果てに、僕には見えたのである。