【クロスレビュー】クローバーフィールド/HAKAISHA

注意:どちらもネタバレ全開DEATH。

ハッドはしんでもカメラをはなしませんでした

2008年5月22日、正体不明の巨大生物らしきものに突如として襲撃されたニューヨーク。ちょうどその時、友人ロブの送別パーティーでビデオ係を務めていた青年ハッドは、ロブの恋人を救うために、仲間たちと共に命がけの救出行に同行するはめに陥る。その過程で彼は、リアルタイムで起こりつつある惨劇の模様を逐一ビデオに収めていく。


さて、誰もが抱く疑問だと思われるが、なぜハッドは執拗に撮影をし続けるのか? たまたまビデオカメラを持っていたからって、別にいつまでも撮影を続けなきゃならない義務などはない。いったい何が彼を衝き動かしたのか。
それは、ニューヨークが遭遇した事態を、世界に伝えたいという情熱ではないだろうか。当初は、パーティーのビデオ係の延長で「いや、撮れって言われたから撮ってるんですけど…」的な風情の彼だが、前代未聞の大惨事に直面して、その内に秘めていたジャーナリスト魂に火がついたのではないか?
その証拠に、密かに想いを寄せていた女性が世にも凄惨な最期を遂げるのにも、鉄骨が体に刺さって苦しんでいるロブの恋人の姿にも、本来はカメラなんか向けないのが人情だが、ハッドはしっかり撮っている。「俺の眼に入ったものは全部撮っちゃる!」というジャーナリスト的気概が感じられるではないか。
そして、ついには自分の(これまた凄絶な)最期の瞬間までもカメラに収めることに成功。まさにジャーナリスト魂ここにあり。生きていたら、さぞ立派な報道人になっていたに違いないのである。


でも、まあ、もし僕が彼と同行していたら、まずビール瓶で殴ってからカメラを取り上げますけどね。「この非常時に何をノンキにビデオなんか撮ってやがるんだ!」って怒鳴りながら。
(「シネパカ」管理人:白)

IT CAME FROM 9.11

本作には、突如NYに上陸した巨大生物が破壊の限りを尽くす、というメインプロット以外にも、至る所に1998年製作の『GODZILLA』と類似したプロットが散見される。まるで10年前のリベンジというか、仕切り直してもう一度ちゃんと『ゴジラ』に取り組んでみました、と言ってるかのような。「いや本当にその節は、うちのエメリッヒ監督が大変な失礼をいたしました」とハリウッドが10年目にして菓子折り持って謝りに来たかのような。


ただし『GODZILLA』とも『ゴジラ』とも、ぱっと見の印象からして明らかに違うのは御存じの通り。
全編、手持ちカメラで撮影されたホームビデオの映像というスタイルは突拍子もないが、怪獣出現という極限状況に放り込まれた一般市民の恐怖をリアルに描き出すためには、最適かつ究極の手法といえる。
かつて『ツイスター』では、竜巻という自然現象の猛威が、あたかも怪獣が暴れているかのようなけれんみたっぷりの映像と演出で描かれていた。激しい手ブレとジャンプカット満載の本作では、『ツイスター』とは対照的に、「それ」の姿かたちや生態といった情報は、ごくごく断片的にしか伝えられない。


実体の無い自然災害、純粋で絶対的な恐怖と悪意の象徴にすら思えてくる「それ」。だが終盤、ついに白日の下に晒されるその姿、明らかに生物としての破壊と殺戮の意思をうかがわせる面構えを見れば、「それ」が「怪獣」以外の何物でもない事は一目瞭然だ。
続くエンドロールでも、本作が紛れもなく真っ当な「怪獣映画」である事を宣言するかのように、見事に伊福部昭リスペクトなサウンドのオリジナルスコアが高らかに鳴り響く。


廃虚と化したNYの情景ともども、「それ」が7年前の「9.11」の記憶とだぶらせてあるのは明白だ。かつて『ゴジラ』が東京大空襲第五福竜丸事件の生々しい記憶から生まれたように、アメリカもまた「9.11」の痛みを得る事で、漸く『ゴジラ』の正しいリメイクを作り出す事に成功したのである。
そう、10年前の『GODZILLA』は「腐ってやがる。早すぎたんだ」(クロトワ)。
犬温