ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地(1975・ベルギー/フランス)

監督:シャンタル・アケルマン
脚本:シャンタル・アケルマン
出演:デルフィーヌ・セイリグ/ヤン・デコルテ/アンリ・ストルク/ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ 他
★★★★★


選択肢のない人生の辛さ

僕が子供の頃、夏休みや冬休みになると、母の実家に泊りがけで行くのが恒例になっていて、僕には割と楽しみでした。普段は食べられないものを食べられたり、海が近かったので海水浴ができたりしたし、祖母も大変に優しい人だったし。
しかし、一点だけ、どうにも引っかかるのが祖父のことで、この人、いつ行っても朝から酒を飲んでいるわけです。昼食の時も飲んでるし、夕食の時ももちろん飲む。一日中テレビの前に座ったまま、とにかくずっと酒ばかり飲んでいる。
酒を用意するのも、おつまみを作るのも、もちろん祖母の役目で、僕たちが遊びに行った時には母も手伝う。そんな時の母はけっこう辛辣に、朝から酒ばっかり飲んでいい加減にしろ的なことを言うんですが、祖父には馬耳東風。全く言うことなんか聞きやしない。酒やおつまみが切れると大声でおかわりを要求するだけで、一切何もしない。まあ、ちょっとした暴君ですよ。大声は出すものの祖母に暴力を振るうのは少なくとも僕は見たことはないんですが、母によると祖父が若かった頃は激しめのDVを振るうこともあり、祖母と一緒に逃げだしたこともあったとのこと。
母や僕は一年のうち、せいぜい二、三日くらいしかこういう祖父の醜態に付き合わなくていいから良いようなものの、祖母は毎日毎日、朝昼晩とずっと祖父のために酒やおつまみを用意し続けていたわけです。しかもそれが数十年単位で続いた。そういう生活をしていた祖母の気持ちを想像するだけで、何ともいえない胸が詰まるような気持ちになる。
当時は子供心に「アル中ジジイなんかほっといて、どこかへ逃げ出しちゃえばいいじゃん」と思ったもんですが、いい歳のおっさんになった今では、それをしなかった/できなかった祖母の事情もわかるような気がするんですね。だって知らねえんだもん、家の中のことをきちんとやるっていう生き方以外を。たぶん祖母の世代の女性はほとんどがそうだったんだろうと思います。
で、ジャンヌさんもそういう女性のうちの一人なんだろうと思うんですよ。息子のために飯作ったりとか、買い物行ったりとか、その他こまごました家の中のことは全てきちんとやる。それはできるんだけど、逆に言うとそれしかできない。夫が死んでシングルマザーになった彼女はたぶん遺された財産やら遺族年金的なものだけじゃ生活できなくて、かと言って手に職もないので(これは割合早めに劇中で描写されるのであえて言及しますが)自宅で売春せざるを得なかったということなんでしょう。
他に選択肢がない、家事と売春の日々が延々と続いてきたし、今後も続いていくとしか考えられないのが彼女の人生であり、まあ端的に言って地獄ですよ。だからあんな結末を迎えてしまうのも無理はない。たぶん彼女にとっては破滅であると共に解放でもあったんだろうとラストシーンの虚脱した表情から想像しました。
ところで祖母のその後ですが、20年ほど前に祖父が夜中にトイレで倒れてそのまま亡くなったあと、しばらくして老人介護施設に入所して、約10年前に亡くなりました。そろそろ危ないらしいから会いに行けと母から連絡があり、その翌日に行ったんですが間に合いませんでした。祖母が、祖父や子供の面倒を見るのに明け暮れた自分の人生について、実際どう思っていたのか、それはもう確かめようがありません。