ミスター・ガラス(2018)

製作国:アメリ
監督:M・ナイト・シャマラン
脚本:M・ナイト・シャマラン
音楽:ウェスト・ディラン・ソードソン
出演:ジェームズ・マカヴォイブルース・ウィリス/アニャ・テイラー=ジョイ/サミュエル・L・ジャクソン 他
★★★☆☆


コミック雑誌なんかいらない」とミスター・ガラスは言った

※『アンブレイカブル』、『スプリット』、『ミスター・ガラス』の、それぞれの内容に触れておりますので、未見の方は鑑賞後にお読みいただくことをお勧めします。

「俺にはマンガ雑誌なんかいらないんだよ、だって俺のまわりはマンガなんだから」という意味の歌を故・内田裕也は毎年「ニュー・イヤー・ロック・フェスティバル」のオープニングで歌っていたんですけど、「ミスター・ガラス」ことイライジャ・プライス(サミュエル・L・ジャクソン)もまた、内田裕也とは全く別の文脈で「俺のまわりはマンガなのだ」と考えている男なわけです。
「この世界は本当はコミックスなのである」という世界観に取りつかれ、「ヴィラン」である自分がいる以上、その対称的な存在としての「ヒーロー」もどこかにいるはずだと考えた彼は、それを証明するために、わざわざ列車を脱線させて大惨事を引き起こし、その結果、本当にヒーロー足り得る人物であるデヴィッド・ダン(ブルース・ウィリス)を発見してしまいます。その顛末が語られたのが『アンブレイカブル』(2000)でした。
まあね、この作品を観た直後は「うわー、そう来たか、こりゃやられたわ」と一本取られたような感じでしたけど、今、冷静に考えてみると実にキがチガっちゃった話だったなあと思わずにはいられない。だって世界はマンガなのだと証明するために大量殺人を実行するって単なる狂人でしかないじゃないですか。その狂人の言い分がたまたま正解だったっていう話ですからね。
で、二作目の『スプリット』(2016)は多重人格者の青年ケビン(ジェームズ・マカヴォイ)に誘拐された女子高生3人組の運命を描いた作品で、最後の最後まで『アンブレイカブル』と同じ世界を舞台にしていることはわかりません。というか唐突にブルース・ウィリスが登場するまでは全く無関係な作品としか思えないんですが、実はこの作品中でシャマランは、この世界におけるヒーローやヴィランの生成過程を説明しているんだと思います。ケビンの主治医である女性精神科医が、多重人格者は人格が変異すると体質まで変わるのだと主張するシーンがあるんですけど、それを敷衍して、意志の力によって人間はヒーローにもヴィランにもなれるのだという、これまたよく考えると「超理論」としか言いようがない理屈を主張していると思われるわけで『アンブレイカブル』に負けず劣らず狂っている。
そして三部作の最後を飾る本作なんですが、なんと「世界が本当はマンガであることを隠蔽しようとする」勢力が登場。ミスター・ガラス、ケビン、デヴィッドの三者の存在を世間から隠し通そうとあれこれと画策します。しかしミスター・ガラスの深慮遠謀によって、ついに全世界に「この世界は実はマンガなのだ」という真実が知らされてしまう。狂った大量殺人犯の活躍によって世界の真の姿が露わになるという、世界に対する狂気の圧倒的勝利とでも呼びたい結末を迎えるわけです。
僕としては、『アンブレイカブル』の一作だけで終わるなら、まあアリかと思えた「世界は本当はマンガなんだよ」ネタですが、こうして三部作まで引っ張られると、何故このネタにそうまで執着するのか全然わからんと呆れるのが半分、しかし狂気が世界を凌駕する過程を描いた三部作と捉えれば、その何ともいえない野蛮さに惹かれる部分も半分あり、どうにも評価が難しく、単純にどうこう言えない作品です、と現時点では言っておきます。