ブレードランナー 2049(2017)

製作国:アメリ
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
原案:ハンプトン・ファンチャー
脚本:ハンプトン・ファンチャーマイケル・グリーン
音楽:ハンス・ジマーベンジャミン・ウォルフィッシュ
出演:ライアン・ゴズリングハリソン・フォード/アナ・デ・アルマス/ジャレッド・レト 他
★★★★☆


時には母のない子のように

※ネタバレしていますので、鑑賞後にお読みいただくことをお勧めします。


2017年11月9日、丸の内ピカデリー3(丸の内ピカデリー爆音映画祭)にて鑑賞。
確かに欠点が多い映画ではある。しかし僕にとっては素晴らしかったとしか言いようがない。というのも、この作品を観ることによって、あの偉大過ぎる前作について、少なくとも僕がこれまで意識したことのなかった側面を発見できたし、さらにその側面と対になる形の物語を打ち出すことで、前作と拮抗する対照的な作品として成立させることに成功していると考えるからである。
本作によって逆照射される形で明らかになったのは、前作は「父と息子」の物語でもあった、ということだ。「父」はタイレル博士であり、「息子」はロイ・バッティである。ロイはタイレル博士に救ってほしくて地球に逃げてきたのに、すげなく拒絶されてしまう。「父」に「息子」が見捨てられる残酷な悲劇。それが前作の底流に流れる物語だった。
それに対して、本作は「母と息子」の物語である。主人公・K(ライアン・ゴズリング)は、技術的に決して存在するはずのない「母」となった旧式のレプリカントの遺体を発見したことをきっかけとして、最新型のレプリカントとして製造されたはずの自分が、実はその「母」と人間との間に産まれた「息子」なのではないかという疑惑を抱くことになる。
その疑惑の真相を追求するうちに、彼の中にはふたつの相反する願望が生じていく。ひとつは自分が「息子」であってほしくないという願望。何しろ人間とレプリカントとの間の子を発見して抹殺せよという命令を、まさに自分自身が受けているのだから。そしてもう一つは、自分こそが、その「息子」であってほしいという願望。それは、父母が存在しないのに誕生してくる「生まれながらの孤児」であり「スキンジョブ(人間もどき)」と蔑まれる存在であるレプリカントとしての自分から解放され、せめて「母のない子」としての自分を手に入れたいという切実な願いである。
追求の果てに、Kは一度は、自分が「息子」であるとの確信を得る。しかし真相は恐ろしく残酷なものだった。彼は、レプリカントと人間との間に産まれた子の、更にクローンとして創られた存在だったのだ。
すると、いったい彼は何者なのか。人間ではない、レプリカントでもない、記憶は「もう一人の自分」のものだ。彼は、世界から完全に切り離された、およそ想像を絶する孤独な存在である。
では、そんな男が、最後に選んだ行為が、前作でロイ・バッティが選んだものと同じだったということにはどんな意味があるのか。
Kとロイ・バッティ。この二人に共通しているのは、極めて人間に近いものの決して人間ではない者として世界に産み落とされたが、それぞれの「父母」から「捨てられた」、即ち世界から拒絶されたという点である。だから彼らには世界を憎悪する権利はあっても、何か世界の側、言い換えれば「人類の側」を利することを為す義理など本来は無い。にもかかわらず彼らはデッカードを救う。つまりそれは決してデッカードのためではないのだ。
では、何のためなのか。それは彼らが「魂」を所有していたことを証明するためだったのではないだろうか。
前作と本作、二つの『ブレードランナー』で語られたのは、たとえ人間以外のものであっても「魂」は宿るということだったと僕は思う。「魂」とは他者との、社会との、世界との繋がりを形作ることのできる心の作用とでも言おうか、要するに「共感能力」だと思うのだが、ロイもKも人間ではないにもかかわらず、人間だけが持っていると思いたがっている、その「魂」を有していることを証明するためにデッカードを救ったのである。その行為は「お前たちが捨てた俺たちにも――いや俺たちにこそ、断じて魂はある!」という抗議の叫びだったのだ、と僕は解釈している。