精神

モザイクの向こう側

監督・撮影・編集・製作:想田和弘
内容:医師・山本昌知が代表を務める外来の精神科診療所「こらーる岡山」に、様々な理由でやって来る患者たちの悲喜こもごもの人間模様をありのままに見つめた作品。


本作の冒頭には「観察映画第二弾」という字幕が出る。その言葉どおり、本作はナレーションや音楽を一切排して、ただひたすら対象を見つめることに徹している。/この「観察映画」という言葉には、ふたつの意味があると考えられる。「監督が観察することに徹した映画」という意味と、「観客が監督の視点を通して映画に登場する人々や場面を観察する映画」という意味である。/だから、本作では、たとえ撮影対象が精神を病んだ人であろうと、どのような場面であろうと、TVでよく見るようなモザイクはかけられていない。考えてみれば当然だ。モザイクがかけられていたら、監督が目にしたものを、そのまま観ることができない。観客も共に「観察」するためには、絶対的にモザイクを排する必要があるわけだ。だから想田監督は撮影に際して、患者ひとりひとりに撮影許可を求めたそうである。ただ単に「観る」ということさえも困難な場所で、このような作品をつくり上げた彼の努力には驚嘆するしかない。/監督は、患者たちを、ただひたすら見つめ続ける。それだけのことで、観客の精神病患者に対する認識はどんどん変わっていく、いや、いかざるを得ない。彼らを「理解」できたと感じる人もいれば「共感」のようなものを感じる人もいるだろう。しかしラスト15分ほどのシークエンスで、その「理解」や「共感」はあっけなく突き崩される。/ひとりの老人が、様々な役所に電話をかけ、意味不明の難癖をつけまくる姿を、カメラは延々と撮り続けるが、彼はついにカメラを全く無視したまま、バイクで走り去る。その背中は「理解」も「共感」もかたくなに拒否している。/「人間の精神の在り様は、たった一本の映画を観たくらいで、理解したり共感できたりするほど単純なものではない」という厳然たる事実を意味する、本作の存在理由を否定してしまうような場面さえも「観察」してしまう。この貪欲な「観察映画監督」が次に何を対象に選ぶのか。僕は今から期待している。