イーグル・アイ

コンピュータ恐怖症患者の見た悪夢

シカゴのコピーショップで働く青年ジェリー・ショー(シャイア・ラブーフ)はある日、米軍に勤める双子の兄弟が急死したと知らされ、実家へ帰る。その後、アパートに帰宅してみると、何故か大量の軍事用機材が届いており、さらに謎の女性から「FBIが迫っているので、すぐその場から逃げろ」と電話で警告される。しかし逃げ損ねたジェリーは、そのままテロリスト容疑で逮捕されてしまう。一方同じ頃、ワシントンDCに向かう幼い息子を送り出したシングルマザーのレイチェル(ミシェル・モナハン)も謎の女性から電話で「これから指示に従わなければ息子の命はない」との脅迫を受ける。そしてジェリーとレイチェルは行動を共にすることになるのだが……。


いきなりネタバレすると、「彼女」の正体はコンピュータである。まあ、やることなすこと人間離れしているから察するのは難しくないし、比較的早い段階でネタが割られることでもあるし、まあ許してねってことで。
しかし、このコンピュータは優秀なのかポンコツなのか、判断に苦しむ「個性」の持ち主である。「彼女」の真の目的達成のためには、もっと手っ取り早い方法がいくらでもあるような気がするのだが、あえてまわりくどい計画を選んで実行しているみたいだ。それとも、これがコンピュータ流の合理的手段なのだろうか。
あと、この手の映画ではいつも感じることなのだが、いくらもの凄く優秀なコンピュータだからって万能過ぎにも程がある。いくらなんでもこんなことは不可能だろ、みたいなシーンが本作にも散見された(送電線のシーンとか、電機店のシーンとかね)。脚本を書く時にリサーチは当然するだろうに、いつもいつもかなり誇張して描かれるように思えるのは、単に僕が無知なだけなんだろうか。
確かに現代のテクノロジーは、なかなかにスゴイことになっている(『イーグル・アイ』的にはグーグル・ストリート・ビューなんか良い例だ)。でもアメリカ全土に無数にある監視カメラにアクセスできるコンピュータなんて作れっこないんじゃないの?と素朴に思うのだが、どうだろう。
思うに、この映画の脚本には「コンピュータ恐怖症(あるいはテクノロジー恐怖症とでも呼ぶべきか)」の影をハッキリ感じる。どこかの秘密施設に巨大なスーパーコンピュータがあり、それには全ての国民のデータがインプットされていて、政府によっていつでも利用できる……という、いわば『1984』アップグレード版みたいな妄想がストーリーの核になっているのだ。
まあ、恐怖症だろうが妄想だろうが面白ければなんでもいいんだが、リアリティに難がある、と感じさせてしまったらダメだろう。そして僕はダメだった。