イースタン・プロミス

寒い国から来たヤクザinロンドン

クリスマスを控えたロンドンのある夜、助産婦のアンナ(ナオミ・ワッツ)が働く病院に妊娠した身元不明の少女が運び込まれる。少女は、女の子を産んだ後に息を引き取った。少女のバッグからロシア語で書かれた日記を見つけたアンナは、孤児となった赤ん坊のために少女の身元を調べ始める。ロシア語がわからないアンナは、日記にはさまれていたカードを頼りに、あるロシア料理店を訪ねるのだが……。


さて、近年、クローネンバーグは作風が変わったかのように思われがちだが、僕は、彼は終始一貫して同じテーマで映画を作り続けているように思う。それは「『異形の者』と世界との軋轢」である。ただ、70年代から80年代にかけての作品群に登場する、腋の下のペニス状の器官で人の血を吸うおネエさんとか、人の頭を爆発させる超能力者とか、ハエと遺伝子レベルで結合してしまった科学者とか、そういうわかりやすかった異形者の造形が、一見すると一般人と何ら変わらないようになっただけだと思うのだ。つまり肉体の異形性から精神の異形性を描く方向にシフトしたのではないか。
例えば、前作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』ではヴィゴ・モーテンセンはかつて残忍なマフィアだった過去を隠して田舎町に隠遁している男だが、いざとなると恐るべき殺しのテクニックを見せる。いくら外面を繕っても、彼の内面は相変わらずプロの殺人者なのだ。彼が元のような隠遁生活に戻れるのかどうかは、観客の想像に委ねられる。
前作に続いて、ヴィゴ・モーテンセンが主役に据えられた本作では、彼は全身タトゥーだらけの強面のロシアンマフィア・ニコライを演じている。彼は組織のボスの息子キリル(ヴァンサン・カッセル)の面倒を見させられている。このキリルというバカ息子が隠れゲイで、やたらとニコライに絡むのだが、どう見ても甘えているようにしか見えない(ヴァンサン・カッセルは自分がゲイだということに劣等感を持ち、屈折しているキリルという男を好演している)。
このキリルの存在に限らず、この作品は全体がゲイ的なテイストで統一されている。例えば正式に組織の一員になるための儀式をニコライが受けるシーンでは、彼はパンツ一丁で組織のお偉方のジジイ達の前で自分の体に刻まれたタトゥーの意味を説明させられる。
その結果、「合格」して組織に迎えられた彼はその証しとして新しいタトゥーを彫られるのだが、このシーンがまた妙に色っぽく撮られている(タトゥーを彫られるニコライは恍惚としているように見える)。
更に、サウナで二人の刺客に襲われるシーンでは、彼は全裸で格闘するので、ヴィゴのヴィゴがヴィゴヴィゴしているのがバッチリ映り込んでいる(微笑)。
クローネンバーグがゲイかどうかは知らないが、もともと移民であるロシアンマフィア達が、ロンドンという異郷で生きていくには、はたから見ると同性愛的にさえ見える固い結束が必要だということを表現しているのではなかろうか。
ところでニコライは完全に組織に溶け込んだように見えるが、実は彼には重大な秘密があり、やはりロシアンマフィアというコミュニティにとっては「異形の者」だったということが判明する。
まさにクローネンバーグにしか撮れない変則ギャング映画である。