ダンケルク(2017)

製作国:イギリス/アメリカ/フランス
監督:クリストファー・ノーラン
脚本:クリストファー・ノーラン
音楽:ハンス・ジマー
出演:フィオン・ホワイトヘッドケネス・ブラナーキリアン・マーフィトム・ハーディ 他
★★★☆☆


僕がその名を知らない兵士たち

正直に言うと、観終わった直後は、なんかつまらん映画だったなあという感想を持ちました。映像はめちゃくちゃ美しいんですが、ドラマらしいドラマはなく、「空」と「海」と「砂浜」とにきっちり分けて(しかもそれぞれ違うタイムスケールで)語る必然性もよくわからず、というか3つの視点が設定されていることで、むしろ全体としては散漫な印象を抱いてしまったんですね。
しかし、ですよ。この文章を書くためにいろいろと思い返してみたら、この作品のある特徴に気づきまして、もしかしたらこれはこれでなかなか興味深い意図が含まれた映画なのかもしれんと考え直しました。
その特徴とは何かというと「登場人物の名前がほとんどわからない」ということです。例えば「砂浜」のパートで一応主役的な存在とされている若い兵士は「トミー」という名前なんですが、少なくとも僕は映画を観ている間は全然わかりませんでした。「空」でスピットファイアに乗って奮闘するトム・ハーディでさえ、終盤、先に着水した同僚のパイロットが呼ぶまでは「ファリア」という名前であることはわかりません。キリアン・マーフィなんか役名が「謎の英国兵」ですからね、そもそも名前が付いてない。例外的に名前がはっきりと観客にわかりやすく提示されるのは「海」に自らの船で乗り出して救助に向かう民間人の「ミスター・ドーソン」とその息子たちだけです。
つまりイギリス軍に属する人たちは偉い人だろうが下っ端だろうが全員、名前が「よくわからない」んですよ。そしてノーランは明らかに意図的にそのように演出していると僕は思います。
ここで、この作品を『プライベート・ライアン』と比較してみます。この映画はまさに本作とは好対照で、兵士の名前こそが重要な要素になっています。だって「ジェームズ・ライアン」という名前の若い一等兵を、ノルマンディー上陸作戦が展開中の広大な戦場から探し出して連れ戻すという任務を与えられたトム・ハンクスが率いる中隊の物語なんですから。
プライベート・ライアン』を未見の方のために少し説明すると、そもそも何故そんな無茶な命令が出されたかというと、ライアン家の4人兄弟のうち、末っ子のジェームズ以外の全員が戦死したという件がたまたまアメリカ陸軍の参謀総長の耳に入り、突然人道的な意識に目覚めた彼が、末っ子だけは生きて家に帰らせろと言い出したからです。何百万人もの人間同士が殺し合いをやっている最中によくもまあそんな偽善的なことを思いつくもんだと感心しますが、とにかくそういった次第でトム・ハンクスたちは地獄のような戦場を彷徨うことになる訳です。
比べてみると、この2本の映画は全く違うように見えますが、実は「原則的に戦場において人間は名前=アイデンティティーを奪われる」という問題をそれぞれ違う方向から取り上げているのだと僕は考えます。
ジェームズ・ライアン一等兵は、参謀総長の気まぐれによって、たまたまその名前がピックアップされることになっただけで、もし何事もなければ、単なるアメリカ軍の一兵士として扱われていたはずです。
ダンケルクに取り残された兵士たちは皆、いわば「ピックアップされなかったライアン一等兵」です。彼らはただ、40万分の1として存在するしかありません。
ダンケルクで起こったことで最も酷いことは、実にこの、ちゃんと名前を持ち合わせた人々が「40万人」という頭数としか捉えられないという羽目に陥ったことじゃないのか。それが、ノーランがこの映画で言いたかったことのひとつに数えているかどうかは知りませんが、少なくとも僕は、振り返ってそう思ったのでした。