スパイの妻<劇場版>(2020)

製作国:日本
監督:黒沢清
脚本:濱口竜介/野原位/黒沢清
音楽:長岡亮介
出演:蒼井優高橋一生東出昌大恒松祐里笹野高史 他
★★★★☆


愛と正義と男と女

本作の監督・黒沢清『岸辺の旅』(2015)では失踪していた夫が幽霊となって、また『散歩する侵略者』(2017)では、やはり行方不明になっていた夫が宇宙人に憑依されて、それぞれの妻のもとに帰還するんですが、本作でも、満州へ仕事のために赴いた夫(高橋一生)が「別人」になって妻(蒼井優)の待つ家に帰ってきます。

※以下、本作の内容に触れておりますので、鑑賞後にお読みいただくことをお勧めします。

もともと満州に行く前から、この人は第二次世界大戦前夜に生きている人とは思えないほどリベラル指向の人物として描かれているんですが、帰国後の彼は何か一線を踏み越えてしまった雰囲気を漂わせている。いったい彼に何が起こったのか?
『岸辺の旅』『散歩する侵略者』のように超自然的な理由が絡むわけではなく、端的に言えば彼は「正義」に目覚めて帰ってきた。日本軍が満州で極秘の人体実験を行っていることを知ってしまったがために、単にリベラルな人から「反体制派」「活動家」と呼ばれるような人に変貌したわけです。
でも、妻の方はそういう受け止め方をしない。夫が言わば“「正義」に寝とられた”のだと解釈し、あくまでも「正義」の代わりに自分が夫の傍らにいたいという一心で、夫に同行して満州に渡り、やはり「正義」に目覚めた甥を憲兵に売ることも辞さない。彼女にとっては夫と秘密を共有している人物は排除すべき「ライバル」として捉えられるわけです。つまり本作中の彼女の一連の行動の裏には嫉妬がある。
しかし、そうまでして夫に寄り添おうとした彼女のことを夫自身は理解できず、妻を愛しているがゆえに、しかし「正義」に殉ずるために彼女を裏切る(そのことに気づいた瞬間の蒼井優の絶叫、一瞬人間に見えない。人間の輪郭からはみ出した凄みがある)。この物語は言ってみれば、ある夫婦と「正義」との壮絶な三角関係を描いているといえると思います。
さて、そのような葛藤の果てに、この二人はどこにたどり着いたか。一種の「地獄」と言ってもいい場所がそこには広がっています。愛も正義も必ずしも人間の幸福を保証しないという、あまりにも非情な世界が。